2016年10月10日月曜日

老いの達人

 わたしは食べたい時に食べ、眠りたい時に眠るのである。読みたい時に、勝手に読みたいものを読むのである。何の強制もなければ何の束縛もない。そして、時間が空白で退屈というよりか、むしろ豊かさを増して、潤いある密度の高いものに変わったような気さえする。せかせかした、乾からびた時間はなくなった。わたしは生きかえったような気持だ。
 これはドイツ文学者大山定一、七十才の述懐である。なんとも羨ましい境地ではないか。更に彼は学者としてある到達点に至ったことをこう表現する。
 陶淵明の「甚だしく解することを好まず」といった言葉が、すこしずつ、わかりかけたようだ。/無理にわかろうとしないのである。いつかわかるまで、気永に待つこと――わたしには幾らでも長い時間がある。だから、二三週間かかって、ようやく一篇の詩の意味がまとまって理解できたり、一見平凡としかみえなかったものが深い含蓄のある佳作に思えてきたりするのは、なかなか楽しいものだ。
 私より少し若い七十才という時点でこの感懐を抱けるとはさすが超一流の学者はちがうものだ、と羨望せずにいられない。
 
 大山の専門―ゲーテは老年について次のように語った。
 「人間には、年齢に応じたそれぞれの哲学がある。子供は、実在論者である。子供は、自己の存在より梨やりんごの存在を信じている。青年は、内部のはげしい情熱にゆすぶられて、初めて自己の存在を予感し、自分のたましいを意識する。青年は、観念論者である。しかし、壮年は、懐疑論者になる当然な理由をもつ。ある目的のためにえらんだ手段が正しいかどうか、彼はつねに疑わざるをえない。行為するまえに、行為するとともに、彼は当然あらゆる理性をはたらかせて思考しなければならない。最後に老年は、神秘論者である。彼は、多くのことがほとんど偶然によって支配されているのを知る。非合理的なものが成功し、合理的なものがしばしば失敗する。幸福と不幸とが思いがけなく和解する。すべてがそうであったし、すべてがそうである。老年は、現在あるもの、過去にあったもの、未来にあるべきもののなかから、つねに平静と安堵をもとめようとする。」
 実際、若いころはあらゆることが合理的で、真理のもとに行われるべきであり、そう努めるべきだと考えていた。にもかかわらず、不合理で理不尽なことがまかり通っている現実に怒り、悲憤を感じることが多かった。その経験が選択肢の多様性を学習させ、懐疑論者として「あらゆる理性をはたらかせて思考」する行動様式を取り入れざるを得なくさせた。
 最近友人のひとりがこんなことを言った。病気がちな彼ら夫婦に比して健康を誇る私に「幼年期に生死をさまよう大病を二度も経験しているから、そのときに『病ぬけ』したんやな」と。彼は、人生プラス、マイナス、ゼロだという信念を抱いているに違いない。ゲーテ流にいえば「幸福と不幸とが思いがけなく和解する」のであり「つねに平静と安堵をもとめようとする」のが老年に通例な達観なのだろう。
 ゲーテの晩年は「ちょうど夕日の時刻のように、夕ぐれの雲がしずかにたなびいて、山の上の空は青く澄みわたっている。そういう透明で清澄な、しかも人生を肯定する最後の光がうまれようとしている」ようなものであったらしい。そして「ありとあらゆるものを達観し肯定する老熟した精神のゆとり/何が何であれ、人生はいいものだ!」という境地に至ったのであろう。
 
 人生僅か五十年、の時代は学びの時期を過ぎて労働と家庭の建設・運営を経て子どもの巣立ちをみるころには寿命も尽き果てた。老年は数年で死を迎えた。しかし今や八十才の長命は普通になってきて青年期壮年期とほとんど変わらない時間を老年期として過ごす時代になっている。学びと労働の技術と知識は学習体制が整っているが「老い」のそれは各人各様に『創造』しなければならない。
 壮年期の懸命さと運不運が老年期を規定する傾向が強くそれを従容として受け容れざるを得ないとしている人が多いがそんなことはない。テレビで紹介される九十才をすぎ百歳近い「老いた超人たち」をみてそう思う。彼らのほとんどが六十才、いや七十才で「リスタート」している『老いの達人』だ。
 
 「何が何であれ、人生はいいものだ!」。そう思ってKもYも逝ったにちがいない、八月と九月、たてつづけに他界した友人の鎮魂を祈る。
この稿は筑摩叢書『洛中書問』の「ゲーテ晩年の詩―大山定一」に依拠しています

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