2026年3月1日日曜日

長寿への意思

 『金子兜太養生訓(黒田杏子著/白水社2005)』を読みました。これが三読目です。初読が60代半ば、再読は70代後半、そして84才ですから折々に老いの転換点だったように思います。その都度元気をもらうのですから結構な本です。この度はまさに晩年後期を迎えて体力の衰えを自覚してさあこれからどうしよう、と繙くと見事に金子さんは活路を開いてくれました。この本の当時金子さんは86才ですから丁度ピッタリの年周り、追い込まれていた状況が同じですからそれも当然かもしれません。

 わたしにはこの本の外に『思い出す事など』と『病牀六尺』の二冊が晩年の応援本になっています。前著は漱石の修善寺の大喀血の前後を自身が思い出すままに記したもの、『病牀――』は子規が持病の脊椎カリエスが悪化して死期を迎える直前の約百二十日の日々を病牀でつづったものでどちらも文豪の気迫の一冊です。臨死体験をした漱石が病について、死についての体験を文字化する過程にリアリティがあってこれから老いが進行して病とのつきあいをどうしようか案じているわたしを道案内してくれます。子規のほうは死に臨んで苦痛に呻吟するなかで、なおも日常を継続しようとする気迫に圧倒されます。ジタバタするにちがいない私を見据えて、子規の姿はそのときの勇気の書です。このふたりを心の底から尊敬せずにはいられません。

 金子さんはエリートです。日銀を定年(55才)まで勤め上げるかたわら俳句界の重鎮でもあったのですから我々一般人とは格段の差があります。しかしそれを差し引いても金子さんの晩年の生き方は勇気を与えてくれます。これからの晩年をいかに生きるかについて示唆に富む「養生訓」を私なりに読み込んでみようと思います。

 私は現在、長寿への意志というものをはっきりもって生きております。どうもね、ただ成り行き任せに生きていたのでは長生きはむつかしいのではないかと思います。

 私はいま健康にいい要素を全部取り入れています。それが私の健康法のもとでもあります。

※ このふたつの言葉に私は強く共感しました。長生きの一番厄介なところはいつまで生きられるか誰にも分からいことです。今すこぶる健康でも明日自動車事故で死んでしまうかもしれない。病気がちで寝たきりの生活をしている人が存外生き永らえるということは決して珍しいことではありません。そんなことを言い訳に成り行き任せにダラダラ毎日過ごしている、ハッとしませんか。私も70才代までは死というものにリアリティを感じなかったものですから健康を幸いに勢いで生活していた側面が否めません。しかし80才を超えたあたりから体力の衰えを感じ始め去年の誕生日、84才という年齢によって「晩年後期(85才からの人生)」に切迫感を帯びるようになり、ヨシ長生きしてやろうと期したのです。

 気づくと私も健康に良いと思うことは随分取り入れています。朝トレの45分~1時間に筋トレ、内臓、眼そして歯磨きまで部位別に健康法を行なっています。

 日頃から自分の理想をもっているのといないのとでは、晩年を充実して送れるかどうかにあたって、大きな違いとなって現れます。

 趣味を趣味で終わらせてはなりません。趣味でやる限りは腹の中にたまったモヤモヤはいつまでたってもなくなりません。そのような状態で定年を迎えても、晩年は楽しくないはずです。落伍者のような気持ちを引きずって終わるだけです。そのような落伍者にならず、心底満足できる人生を送るには、趣味をプロのレベルまで引き上げることが必要です。(略)漫然と生きることが一番いけないのです。趣味だけで生きてはなりません。それでは納得できる生き方にはなりません。(以上は『二度生きる(金子兜太著1994)』から)

※ 理想なんて大げさなものでなくていいし趣味をプロレベルになんて金子さんだから言えることで、目標程度で十分ですし一年や二年ではできない趣味や習い事でいいのです。最低でも十年くらいはかかるなぁと覚悟を持って取り組まなければならない趣味か習い事はさがせばいくらもあるでしょう。一生仕事として取り組まなければならないものがあればピッタリです。

 友人に「さつき」栽培を趣味にしたのがいました。途中でゴルフをはじめて結局そっちが面白くなってさつきを止めてしまいました。さつきは奥が深くやればやるほどレベルが上がっていって一生かかってもこれで終わりということがない。やっておけば良かったと残念がっています。

 私は日本の古典を注釈書を手引きにできるだけ多く読みたいと思っています。つづけ字や漢字三体の手習いをつづけて絵巻物や展覧会の書が読めるようになりたいという目標をもっています。

 彼(一茶)のいう荒凡夫――それが私にとっては大きな座右の銘です。自由な平凡な男という意味です。私は「荒」を、乱暴、荒々しい、粗野ではなくて、自由ととっています。自由で平凡な男、偉くない男、平凡ということのなかには、一茶が言うように煩悩具足、このままで生きる、要するに我を殺したり、善人になって生きるということは考えない。自分のありのままで生きていく。ただ、人には迷惑はかけない。ここに自由ということがあると思う。そういうものが荒凡夫だと思う。

 年齢とともに健康に対して不安は出てきていますが、自分の行く道は荒凡夫、それしかないと思っています。荒凡夫で生きる、長生きをすることだけしか私の能はないと割り切っているのです。長生きをしたいのではなくて、私の生存している価値は長生きをするということだけだ。これは私にとっての価値で、他人様の価値でも何でもないんだけれど、それしかないと思っているのです。/この考えは、自分が八十歳になるんだなと自覚したときからです。(略)私もいよいよ年を取ってきたか。じゃ、ここでどうかと思った時、生きるだけが取り柄だから、がんばって生きよう。長生きを私の人生の目標にしよう。そのためにはあらゆる手段を講じて、自分を長生きさせよう。こう思った。(略)生きられるところまで生きる。ただし、条件として人に迷惑をかける状態になったらやめる。元気で長生きする。

※ つまるところ90才近くにもなれば「長生きをすることだけしか私の能はないと割り切っているのです。長生きをしたいのではなくて、私の生存している価値は長生きをするということだけだ」ということになるのではないでしょうか。その上でつづけてきたことをつづけられる限り継続していく。それだけの健康と気力が残っているように日ごろの精進を怠らない。そんな生き方がしたい。

 金子さんが示してくれる生き方は他にもいろいろあります。是非本文を一読してください。


 


 


 


 


 


 


 





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