2025年3月17日月曜日

大団円

  晩年の読書を始めるに当たって、というほど大げさなものでなく目的とか大方針などというものなく、ただ60才もすぎて閑もできたから読書を生活の中心にしようという程度のものでしたが、『草枕がちゃんと読めるようになりたい、くずし字が少しは書けるくらいの素養は身につけたいという願いは微かに秘めてスタートしました(漱石の『草枕』の漢詩のところでいつもつかえるのがもどかしく展覧会などで「書」を見てもほとんど読めないのを日本人として恥ずかしいと思っていました)ただ「読書履歴」を記録すること、買った本の奥付に購入年月日、読了したらその日と簡単な感想を裏表紙(表3)に書くようにしました。相前後してこのコラムの連載を始めたのですから今ある私の背骨のようなものを意識してでなく、今から思えば巡り合わせのように何となく始めていたのですから「行きあたりばったりの人生」の私らしい転機でした

 もう一つ、これははっきりとこれからの人生の指針にしようと決意させてくれたの立花隆さんの「私は勉強が好きなんですね」という言葉です。NHKの彼のドキュメントの中でちょっとはにかむように呟いた一言でしたが私には響きました。読書の三分の一以上は専門書で「学びが好きで読んでいましたが「勉強」という言葉に気恥ずかしさを覚えて人には「知識欲」と言葉を装うところがあったのですがこの立花さんのことばを聞いたあとは心から勉強楽しめるようになりました。多分私の他にも好きなこと、得意なことが勉強(もっと上等な人なら研究)――本人は気づいていないかもしれませんが――多いはずです。それなのに定年後の生活をいかに過ごすかを新たな趣味に求めたり慣れないボランティアを始めたりして不本意な晩年を送っている向き多いのではないでしょうか。そんな人に心から「勉強は楽しいですよ」と言ってあげたい、トーマス・モアも「ユートピア」に書いているではありませんか、「精神の自由な活動と教養を習得することこそ人生の幸福だ」、と。

 このコラムを20年つづけてきてつくづく思うことは、我々ほどパラダイムシフトの変遷に翻弄されてきた世代はないのではないかという感慨です。戦争、戦後民主主義、高度成長、バブル、失われた30年、新自由主義、コロナ、そして生成AIと少数与党。この間にオーム真理教の地下鉄サリン事件と3.11福島原発事故があって戦後が精神的、物質的に否定され、更にリーマンショックがアメリカ資本主義の失敗を突き付けました。しかし残念なことはこれらの経験が蓄積となって思想として統合されずに「上書き」されてきたことです。前のパラダイムは無かったこととして今の流行に被われてしまいそれは又次に書き換えられる……。

 いまトランプ大統領は「外交」を「ディール」と言い換えアメリカを振りかざして混乱を楽しんでいるようですが「外交はディールではない」のです、いやあってはならないのです。それがふたつの全面戦争を経験した人類の英知なのです(国連はその重要な達成のひとつです)。よしんばディールだとしても彼は「優越的地位の濫用」を行なっていますから「正当なディール」ではありません。どうして世界中が彼の「ディール」を認めてしまうのでしょうか。

 中国の海洋進出、ロシアのクリミア略奪とウクライナ侵略、そしてトランプの傍若無人なアメリカ第一主義。大国のエゴだったはずの「グローバル主義」が結果として小国の存在意義を高め無視できない勢力として浮上する中で「無極化」を受け入れられない大国の最後の「あがき」はいつになったら終局をむかえることができるのでしょうか。

 

 2006年4月13日「二番札の知恵」で連載を始めたこの「市村清英のコラム」も今日で1000回を迎えることができました。先輩の勧めで建設関係業界紙のWeb版の片隅に載せてもらってから20年、200回を過ぎたあたりで新聞との関係が切れて頓挫しかかったこともありましたが、誰の束縛も受けない生活の「けじめ」がなくなると折角「晩年」を無為にしてしまいそうで怖いという怯(おそ)れがあってその臆病さが支えとなって今日まで継続することができました。上にも書きましたがスグに「リーマンショック」があって東北大震災、安倍一強にコロナがあって長いデフレがつづいて、右傾化と価値観の多様化が現出、「格差の拡大と分断」が進行して週一回のコラムでは収まりきらないほどつぎからつぎへと問題噴出の20年でした。やっつけ仕事はしたくなかったので読書とデータの裏づけを欠かさない毎日が80才を過ぎた老書生には忙(せわ)しなくなってきました。

 そんな時期に丁度1000回が来たのは巡り合わせかもしれません。思い切ってコラムの連載をここで終わりにしようと思います。人生百年時代の83才は「晩年前期」という区切りにもふさわしいころ合いです。

 今後についてですが、インプット(読書)はこれまで通りつづけますからアウトプット(発表)もするでしょうが、不定期に――気ままに、そしてもっと深みのあるものを書きたいと思っています。そのためではないのですが今の楽しみのひとつはわが国の古典(学校で習った古文)を注釈書を手引きに読むことです。これが面白いのです。古代や中世の日本人の感じ方や考え方が現代に生きるわれわれの深層心理に息づいているのが分かるのです。今は『古事記』を西郷信綱の注釈で読んでいますが全八巻の第六巻に至るのに半年かかってのんびり楽しんでいます。もうひとつは「手習い」です。つづけ字で百人一首を毎日一首、漢字は三体千字文の一句を三年ほどつづけていますがようやく筆が手になじんできました。これからが精進です。最近になって孫に絵本を書いてやりたいとイラストのまね事をはじめました。これを入口に絵も描いてみたいですね。

 晩年後期はからだ次第です。明日ベッドに臥せざるを得なくなるかもしれません。反対に5年10年先まで健康に恵まれて晩年を楽しんでいる可能性もあります。ご同輩の皆さんの一日も長い健康を祈っています。長いあいだ御つき合いいただきありがとうございました。

 

 

 

2025年3月10日月曜日

健康日誌

  80才を過ぎてから急にガタが来ました。これまで軽度の高血圧以外にこれといった持病のなかったのが奇跡みたいなものでここにきて肉体の衰弊が一挙に表面化してきたようで一昨年(81才)5月の連休前に肺炎、昨年(82才)は夏に左膝を痛め今年(83才)は早々に痔核(イボ痔)に罹るに及んでさすがの楽観輩も老いを自覚せざるを得なくなりました。幸い肺炎はかかりつけ医の好診断で十日で完治、膝は最低でも一年はかかるといわれていたのが年末にはほぼ旧に復し痔核も三月中には平常に戻りそうです。重篤な症状に至らなかったのは「早期発見早期治療」のお陰でその因は「健康日誌」にあると思います。

 三十年ほど前に高血圧を告げられ以来降圧剤の服用を続けていますが症状は安定していて二ヶ月に一度の受診は施薬を受けつつ定期健康診断の意味もあって今では生活の一部になっています。25年ほど前にPCを使うようになって「血圧測定表」を作り、その際血圧だけでなく体重(体脂肪率共)、体温も項目に加えました。備考欄を設け体調の変化に気づいた時には記入するように努めました。どの項目も当たり前すぎるものですが意外と体調の異常を伝えることに気づきました。体重は簡単に1kgほどは変化するもので食事を注意することで1kgの範囲内に制御すれば正常といえます。体温は個人差があることを知り36度を境に3分程度の高低は気にする必要はなく風邪を罹いたときの高熱も私の場合は37度台で留まることを把握していました。それが肺炎の時は38度を超えたので医師に相談したらスグに検査してくれて早々に肺炎と診断、施薬、点滴と安静で短期に快癒することができました。痔核も便通の僅かな違和感を日誌に書いて、1週間経ってもそれが消えないので医師に大腸がんの検査の相談をしたところ肛門科の受診をすすめられ指示に従った結果痔核と診断されたのです。

 

 高齢を累ねれば身体に衰えが現れるのは生理の当然で、それを感じ正しい対処をするのが「百年時代」の「健康年齢維持」の要諦です。感じるためには「計測値」があれば自覚的に感じられ数字に表せない体調の変化を書くことで微妙な異常を摘出することにつながります。「書く」ことは重要で、面倒くさい計測を無理なく行えるようになり体調の変化に敏感になって身体と会話ができるようになります。「自分の身体のことは自分がいちばん分かっている」とよく言いますがその通りなのですが、「気づき」をほったらかしにせず「書く」ことで情報化しておけば違和感や異常を感じたときに論理的に判断がつき、医師にも系統立てて情報を伝えることができますから診断が精確になるはずです。

 60才を超えて、幼少時に小児結核を患い幸運にも抗生物質の出現に救われ生年(しょうねん)を重ねることができましたが健康には根本的に自信がなく老年を迎えて細心の注意でもって当たろうと考えました。内科は高血圧の定期検診でまかなえるとして眼科と歯科の定期検診を受けることにしました。お陰で今でも自前の歯で食事を味わえていますし目が健康ですから根気よく読書もできています。また年とともに全身がカサカサになり不快感がつのるようになりましたので皮膚科も受診しています。体力は最低レベルでしたからテニスをはじめることにしそのための肉体改造を試みました。鍛錬というものに人生初めて挑戦し、毎朝太陽とともに起床、ストレッチとインターバル速歩などで1時間ほどの運動に努めました。決まった時間に食事を摂り晩酌を控えるようにし休肝日を月3日もうけることを目標にしました。禁煙は意外と簡単に64才で達成できました。

 成り行き任せで生きてきましたが晩年を迎えるにあたって「健康」という目標を立ててから約20年、曲がりなりにも継続できて今日の健康に繋がったと思います。虚弱な私を支えてきてくれた妻に、経済的に報いることはできませんでしたからせめて晩年はそんな不安から解放して仲の良い五姉妹の交流が楽しめるようにしてあげたいという思いがあったからつづけられたと思います。

 

 健康を考えるとき「喫茶店」は私にとって欠かすことのできない習慣でした。22才で社会人になって東京の神田に勤めるようになって近くの「サボール」という喫茶店に通うようになって以来の習慣ですからもう60年になり生活の一部です(いつだったか歌手の谷村新司が若いころ馴染みの喫茶店がサボールだったと言っているのを聞いて驚いたことがあります)。晩年になって喫茶店で過ごす毎日1、2時間のとりとめのないおしゃべりは恰好の気散じです。なにより60才を手前に西陣から桂に転居してなんの屈託もなく地域に溶け込めたのは喫茶店のおかげでした。その喫茶店も三年前に店じまいすることになりどうなることかと案じましたが初孫を授かるという僥倖に会いこれまで経験したことのない生きがいを得ることになったのは何という幸運でしょうか。

 年に1、2回会って酒を酌み交わし馬鹿話をする友人が何人かいます。年に数回の交歓は若いころそのままの話題が齢を忘れさせてくれて日の高いうちに呑み始めて夜の9時10時に及ぶこともあって楽しみな年中行事です。

 毎朝のトレーニングの最後は近所の公園でラジオ体操をしますが20年以上顔を合わすメンバーがいます。深いつき合いはありませんが二言三言交わす言葉で互いの健康を喜び合う毎日です。この公園のゴミ拾いと野球場の管理も20年近くつづいていますがこうした「つとめ」があるから少々の体の変調があっても朝トレを休まずつづけられているのです。

 精神的な健康を考えるとき毎朝お仏壇に向かって般若心経を誦唱する習慣は重要です。病弱だった私に祖母が仏さんのお世話と般若心経を唱えさせたのが今に至っているのですが、晩年になって先祖と向き合う五分ほどの時間は心を「空」にする貴重な時間になりました。瞑想に近い数秒の精神状態が身体にもたらす影響は私の健康に少なからず恵みを与えてくれていると思います。

 

 「百年時代」になって自身も「晩年前期」から「晩年後期」に至らんとする時期になってみて、健康年齢が維持できているこれまでを振り返って見ると、「測る」「書く」「話す」がうまく機能してきたことに気づき、これからは自覚的にこれを継続していけば「満願上がり」できるかも知れないと思った次第です。

 

2025年3月3日月曜日

AIとSDGs

  トランプ大統領の野蛮で暴力的な言動やイーロン・マスク氏の軽薄で浮かれポンチな振る舞いを見ていると超大国アメリカの断末魔の叫びを聞いているような思いに駆られます。第二次世界大戦が終わって世界が破壊と疲弊にあえいでいる中で唯一無傷のアメリカがそのアドバンテージを謙虚に受け止める恭謙さもなく圧倒的な経済力と軍事力を振りかざして世界を睥睨しました。あまつさえ「世界の警察」を気取り発展途上・復興途上の国家・民族の軋轢に容喙しながら結局中途半端な責任放棄の挙句混沌を世界に撒き散らして現在に至っているのです。世界標準と乖離した豊かさを浪費する「アメリカンスタンダード」は製造業のグローバル競争において完敗を招き「ラストベルト」という格差と分断をもたらしました。それを挽回すべく金融と情報という「新産業」を産みだしたのですが裾野の狭さは製造業ほどの雇用創出につながらず、そこに包摂されなかった層との間に「富の偏在」による「格差と分断」に拍車をかける結果に陥り、とうとう「トランプとマスク」という最悪の「政治状況」を現出してしまったのです。

 アメリカの混沌につけ込んだイスラエルはハマスの愚挙をこれ幸いと「確信犯的」なジェノサイドと復興不能な壊滅的な破壊を行いガザからパレスチナを強制的に退却させようとしました。世界的な批判にもかかわらずアメリカが野放図なイスラエル支援を継続したのは、自らが招いた混沌の中東にあって「唯一の橋頭堡」イスラエルを失えば中東をきっかけとしたグローバルサウス勃興が抑制不能におちいりその結果「世界の強国のひとつ」に成り下がってしまうかもしれない「恐怖」にかられたからです。それはプーチンのウクライナ侵略に対しても同じ構図で、ある意味でアメリカを見限ったヨーロッパをこれ以上「反アメリカ」に傾斜しないようにロシアを対抗勢力として配備することでヨーロッパに睨みを利かせる効果を図る意図が見え見えです。それは対中国戦略としても有効で、今やアメリカの10%にも満たないGDP世界11位の老大国ロシアを「核兵器大国」としてユーラシアに残しておくことで「米中ロによる世界均衡」を保持しようという危険な賭けにトランプ・アメリカは踏み出そうとしているのです。

 

 戦争・紛争・内乱はウクライナとガザだけでなくスーダン、シリア、イエメンでも長期化しておりハイチ、レバノン、コンゴ民主共和国の人道危機は深刻化しています。ミャンマーの軍事独裁政権によるアウンサンスー・チー氏の幽閉も4年になろうとしていますが解決の見通しはたっていません。こうした現状を鑑みると「平和」を享受している国は世界のほんの一部に限られていて、何らかの不安定要素を帯びた国々を含めて世界は未だに「戦争と飢餓」の人類の宿痾から解放されていないのです。経済・社会の発展段階に注目すれば農業・漁業を主産業とする段階に止まっている国から製造業を主とする産業資本主義の段階を超え金融・情報産業に進展した「ポスト産業資本主義」の国まで「多層」な国々が併存しているのが現在の世界状況です。にもかかわらず「AIを装備した新自由主義的資本主義」の「グロ-バル化」を「自由放任」にまかせて野放図に放置しておけば発展段階の遅れた弱小国はひとたまりもなくその暴力に飲み込まれてしまうにちがいありません。折りしもトランプ大統領はガザを富裕層のリゾート地化したSNSを自ら黄金像とともにアップしましたが現在のトランプ・アメリカを放置しておけばそれは決して絵空事ではないのです。

 

 そもそもSDGsはそうした現状に危機意識をもった世界の知性の警告であったはずです。従来のままの「生産」「消費」を繰り返していたらその影響は地球規模の環境の悪化や貧困の深刻化、生態系の破壊などの形で現れることになります。それでは人類の持続可能性が危ういので、「持続可能な開発目標」を共有して人類の調和ある発展を期そうと定められたのです。その17のゴールをここで発表する煩は避けますが「貧困」と「飢餓」からの脱却はそのゴールの最上位に位置づけられています。にもかかわらず2015年に定められたこのゴールは10年経ってむしろ遠ざかってしまっているのではないでしょうか。G20に象徴される先進大国はその経済力と軍事力を暴力的に行使して国家間の「格差」を拡大する方向に暴走しています。環境破壊はむしろ悪化していますし「難民」は「包摂」から「排除」に追いやられつつあります。

 

 トランプ大統領のアメリカの危うさはSNSのプラットフォームとAIを独占しているところにあります。先進国の人口減は製造業(農業を含めて)や政府機関(地方公共団体を含む)の業務のAI化ロボット化を必然化します。「効率化」は極大化され「生産性」はそれ以前と比較できないほど向上するにちがいありません。そうした先進国が「ニューフロンティア」を求めて発展途上の市場に土足で踏み込めば弱小国は「従属」せざるを得ないでしょう。しかしアメリカは「基軸通貨国」としての『責任』を完全に『忘却』して『放棄』して暴力的に「世界支配」しようとしているのです。少なくとも「トランプの4年」は既定の事実として暴走することでしょう。

 

 AIに対してヨーロッパは自制的に取り組んでいます。わが国はAIの発達を当然化してそのデータセンターに要する厖大な電力需要を満たすために3.11の教訓を投げ出して「原発回帰」を「国民の審判」を経ることもなく推進しようとしています。

 免許を返納して歩行と自転車が移動の手段となって気づいたことは、厖大な高速道路整備を含めて駐車場などの「自動車関連資産」へどれほどの税金を投入してきたことかということです。間接的な恩恵はあるとしても「自動車産業」という一産業の発展のために国家財政を限りなくその「育成と保護」に投入してきたのです。そして今度は「AI産業」です。しかもそのすそ野は自動車産業とは比較にならない狭い産業です。格差は今以上に広がることは明らかです。

 

 SDGsはこの10年間あらゆる分野で推進に努められたような印象を抱いていますが17のゴールのほとんどが未達成で、現状はますます遠のいていく方向に進んでいます。

 きれい事でなく「人類の知性」のマイルストーンとして世界が前向きに取り組むようわが国が働きかけることを願った止みません。