昨年の3月から手書きの日記をはじめました。パソコンやスマホの電子文字の打ち込みばかりで済ますようになったのに危機感を抱いたからです。80の手習い、を4年近くつづけてみて書くことの快感を知ったことも影響していますが、書くことと人間の知能に重要なつながりがあるように考えたからです。
人間が文字を発明して約五千年、人類の知識は飛躍的に増大しました。人類の文明の驚異的な進歩は文字の恩恵と言っても過言ではないでしょう。勿論「記録」という機能は文字のもつ一面ですが「書く」という作業が、新しい概念やヒラメキ、発見・発明を促した側面を忘れてはならないと思います。「ペンが勝手に走る」という表現を作家はよく使いますがこれは「書く」という行為(作業)の持っている「機能」をよく表していると思うのです。「書く」という作業は記録とともに創造という機能にも重要なな作用を及ぼしているのです。
もうひとつ「歩く」という動作・運動も創造と深く結びついていると言います。ノーベル賞を受賞した多くの研究者が歩いている途中で発明のヒントを得たとか作家が想像もしていなかった「表現」がヒラメイたということをよく言います。
「書く」と「歩く」は思索や創造のための知識や情報の「整理とヒラメキ」に深く関わっているのです。
もしそうなら「書く」ことを放棄した人類は大いなる危機に瀕していることになります。
話を日記に戻すと今「メモ型日記」が流行っているそうです。スマホのメモ機能を使ったものと紙のもの両方がはやっているのですがなぜ今日記なのでしょうか。SNS全盛となってLINEなどで人と人のつながりが何重にも張りめぐされてそこからの脱出が困難になり、すべてを曝け出すことが当たり前になって、本来人に見せるものでなかったはずの日記まで自己表現として公開することに抵抗がなくなり「承認欲求」が満たされることでむしろ積極的に「見せびらかす」のが当然のようになっています。その結果本当の「自分だけの自分」を残しておきたいという欲求が芽ばえてきたのではないでしょうか。それを満たすメディアとして日記が再評価され小さな流行となっているのではないでしょうか。
なんとも錯綜した状況ですがこのまま放置しておいていいのでしょうか。
最近「WEIRD(ウィアードゥ/ウィアドゥ)」という語が注目されています。「西洋の、教育水準の高い、工業化された、裕福な、民主主義の」の頭文字をとった造語なのですがWEIRD社会は決して人間全体の代表ではなく、むしろ変わり者であることへの注意喚起とされています。根本的な問題提起は時間の流れ、つまり過去から現在、現在から未来へと一直線につながる時間という概念も、もしかしたらWEIRD社会のローカルな考え方ととらえた方がいいのかも知れません。
同じような考え方として「ポストヨーロッパ」があります。
近代のテクノロジーの拡張は西洋的な思考様式の拡大に他ならない。その暴力性が世界に均一の思考様式――西洋の哲学に支配される「哲学の終焉(ハイデガー)」をもたらした。「テクノ=ロゴス中心主義」が世界を席巻し、テクノロジーと西洋哲学による世界の統一的支配をグローバル思考とよび人間中心主義的な単一世界の志向を是として邁進してきた結果今、あらゆる矛盾が蓄積して世界は大転換点に至っている。
ではどうすればよいのでしょうか。西洋と異なるテクノロジーの探究を通じてテクノロジーの多様性を可視化する、そのためにはアジア思想をテクノロジーの見地から再考ないし再構築することが必須だというのはユク・ホイです。世界には多数の思考様式がありそれを探求することで世界のグローバルな均質化を退ける。局所性と多様性を同時に追求して行き過ぎた資本主義や消費主義、新自由主義を乗り越える。ただし「アイデンティティポリティクス(性別、人種、宗教、性的指向などを基に社会問題や政策を考え解決を図ろうとする政治的な動き)」や「差異の中和」「ナショナリズムの回帰」に陥る危険性を避けローカルかつ世界に開かれた「惑星的思考」を構築しなければならない。「特定の価値を絶対化しない」ことが現在の混乱の反省を生かす絶対の条件である、とユク・ホイは訴えています。
生成AIが席巻しています。社会的合意もないまま暴走しています。このままでは人間が蹂躙される可能性も小さくありません。生成AIはある意味で産業革命以来つづいてきた西洋思考――「テクノ=ロゴス中心主義」の窮極の到達点かもしれません。もう一方の結晶である資本主義、民主主義の西洋型は矛盾が飽和点に達しています。人間社会のシステムが破綻に瀕している中にテクノロジーの究極形を投入することの危険性ははかり知れません。未熟な社会に破壊力絶大な技術がおとなしく納まるとはとても思えないのです。
西洋型を東洋思想で、あるいはスラブ系のイスラム系の――西洋型からすればローカルな思考で修正することが現在の混沌を解消する必須の工程だと世界は動き始めている、それが「WEIRD」批判であり「ポストヨーロッパ」という動向なのではないでしょうか。
しかし「書く」も現状改革の有力な方法になる可能性を秘めています。「歩く」は健康と思索には必須です。どちらも現代テクノロジーが見過ごしてきたものですが再評価されるべき時期に来ているのではないでしょうか。
[この稿は毎日新聞書評(2025.12.13)――渡邊十絲子「無数の言語、無数の世界」、中島岳志「ポストヨーロッパ」を参考にしています]
絲
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