2023年5月22日月曜日

ハーンの予言

  日本人は(略)たぶん文明世界の中で、今もなお一番幸福な国民であろう。日本人ほど、幸福に生活していくこつをこれほど深くわきまえている国民は、他の文明国には見られないのである。人生のよろこびは、周囲の人たちの幸福にかかっているのであるから、つまるところ、無私と忍従をわれわれのうちにつちかうところにあるという真理を、日本人ほどひろく理解している国民はあるまい。日本人はやはり世界で一番、いっしょに暮しやすい国民であるという感をぬぐい得ないのである。

 これは小泉八雲――パトリック・ラフカディオ・ハーン(1850~1904)の「日本人の微笑」からの引用です。1895年に発表されたこの小論は維新・開明期の外国人による「日本(人)論」の最もすぐれたものの一つとされています。さらにハーンはつづけます。

 

 文明の根底をけっして愛他精神の上に置いていない国々と広汎な産業競争をせざるをえない日本は、けっきょく、これまで比較的そういった面に欠けていたことが彼らの生活のすばらしい魅力をなしてきたこれらの特質を、発展させていかざるをえまい。国民性はすでに硬化しはじめているが、これからもますます硬化の度を加えていくにちがいない。しかし、古い日本が、十九世紀日本より物質的に遅れていたとはいえ、道徳的にははるかに進んでいたことは、けっして忘れてはなるまい。日本は道徳を、すでに合理的なものにしたあと、それを本能的なものにしている。西洋のもっともすぐれた思想家たちが、もっとも幸福な最高のものとみなしている社会状態を、限られた範囲の内ではあるが、いくつか実現していたのである。

 千年以上もむかしに中国の文明に同化しながら、しかも独自の思考や感情形式を保持している日本は、はたして西洋文明と同化することができるだろうか。ただ一つ、希望を持てる目ざましい事実がある。それは、西洋の物質的優越に対する日本人の讃美が、決して西洋の道徳にまで及んでいないことである。東洋の思想家たちは、機械の進歩と倫理の進歩とを混同するような重大なへまをおかしたり、また、われわれの誇る西洋文明のもつ道徳的弱点に気づかぬようなことはない

 皮相な見地からすると、西洋流の社会形態は、古くより人間の欲望を自由に発達させた結果、華美と浪費をきわめ、はなはだ魅力的である。要するに西洋で一般に行なわれている物事の状態は、人間の利己心の自由な活動にもとづいているから、そうした特質をじゅうぶんに発揮することによって、はじめて到達されるのである。社会的混乱など、西洋ではほとんど注意も引かない。が、そうした混乱こそ、そのまま現在の悪しき社会状態の証明でありまたその要因でもあろう。……西洋かぶれの日本人は、母国の歴史を西洋流に書くつもりでいるのか。彼らは、本気で自分の国を、西洋文明の新しい実験の場にしたいと考えているのであろうか。

 西洋流の解釈にしたがえば、文明は、大きな欲望をもつ人たちを満足させるためのものにすぎない。大衆にとって、なんの利益もなく、ただ野心家たちが、その目的を果たすために競う制度にすぎない。西洋流の制度が、一国の秩序や平和を途方もなく乱しつつあることは目のある人には見え、耳のある人はこれを聞いている。そうした制度の下における日本の将来は、まことに憂慮すべきものがある。倫理も宗教も人間の野望に奉仕するように作られた原理に立脚した制度は、当然、利己的な個人の欲求と一致する。自由や平等という近代的な公式に具現された理論は、すでに確立している社会的諸関係を壊滅させ、礼儀作法を無視する   (略)こうした自由と平等の原理を日本で採用するならば、わが国の良風美俗はたちどころに損なわれ、国民の気風を冷酷無情なものとし、ついには一般庶民に災厄をもたらす要因になるだろう

 人間の願望が自然の法則をつくるという仮説を基にしている以上、究極するところそれは、失意と堕落に終わるにちがいない。……西洋諸国は最も深刻な闘争と幾多の消長をへて、今日の有様となった。だから、闘争をつづけるのが、彼らの運命なのである。(略)永遠につづく混乱こそが、彼らの宿命なのである。平和な平等は、滅亡した西洋諸国の廃墟と、絶滅した西洋人の死灰のなかに打ち立てられるまでは、決して達成されまい。

 

 19世紀後半に生まれたハーンは前期資本主義のもっとも醜悪なヨーロッパで育ちました。激しい格差と極貧に苦しむ庶民と不衛生きわまる社会体制のヨーロッパから来たハーンの目に清潔でのどかな日本は一種の理想郷として映ったにちがいありません。その日本がなぜ醜悪なヨーロッパの後追いをするのか、綻びはじめた日本の行く末を案じるハーンは西洋の模倣にすぎない高等教育に危機感を抱きます。 

 わずか数世代のあいだに、望みとおりの知的変革をなしとげることは、当然、恐るべき犠牲をともなわずにはおかない生理的変化をもたらすにちがいない。言いかえるならば、日本はあまりにも多くのことをやろうとしすぎているのである。(略)今までのところ高等教育の成果は、必ずしも満足すべきものとはいえない。古い体制に育った日本人のなかに、決してほめすぎにならない、礼儀正しさや、無心無欲や、善意に満ちた優雅に、われわれは出会うことがある。当世風の若い世代の連中のあいだからは、こういったものはほとんど姿を消している。卑俗な模倣と、陳腐きわまる浅薄な懐疑を超えることもできずに、いたずらに古い時代と古い習俗とを嘲笑する若い人たちを見かけることがある。いったい、彼らが父祖から受け継いだはずの、あの崇高な美質はどこへ行ったのであろうか。

 

 結局ハーンの予言は不幸にして的中し、彼の憂慮は100年後の日本に「新自由主義」という最悪の西洋模倣の社会を現出するに至っています。

 そんなハーンはどこに「救い」を見いだしていたのでしょうか。そしてそれは今のわれわれに現状から抜け出すために示唆を与えてくれるのでしょうか。

 

 にもかかわらず、現在、日本の若い世代の人たちがとかく軽蔑しがちな過去の日本を、ちょうどわれわれ西洋人が古代ギリシャ文明を回顧するように、いつの日にか、かならず日本が振り返って見る時があるだろう。素朴な歓びを受け入れる能力の忘却を、純粋な生の悦びに対する感覚の喪失を、はるか昔の自然との愛すべき聖なる親しみを、また、それを映していた今は滅んだ驚くべき芸術を、懐かしむようになるだろう。かって世界がどれほど、光にみち美しく見えたかを思い出すであろう。古風な忍耐と献身、昔ながらの礼儀正しさ、古い信仰のもつ深い人間的な詩情――こうしたいろんなものを思い悲しむことであろう。そのとき日本が驚嘆するものは多いだろう。が、後悔もまた多いはずである。おそらく、そのなかでもっとも驚嘆するものは、古い神々の温顔ではなかろうか。その微笑こそが、かっての日本人の微笑にほかならないからである。

 

 

 

 

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