2023年5月29日月曜日

性と生殖と家族について

  『がらんどう』という小説を読みました。大谷朝子という33才の若い女性作家の作品で第46回すばる文学賞受賞作品です。

 アラフォの平井と菅沼はルームシェアをしています。平井の会社が業務のIT化をするとき請け負ったシステム会社の社員が菅沼だったのですがふたりが親密になったのは二人組のアイドルグループKI Dashのファンだと分かったのがきっかけでした。ふたりはレズビアンではありません。平井は男性との恋愛ができない体質です。菅沼は両親の泥沼離婚をみて結婚に否定的になってしまったのですが最近セックスフレンドができたようで月に何回かデートしていますが彼が単身赴任の間だけの付き合いと割り切った関係です。

 就職氷河期だったにもかかわらずたまたま正社員になれた二人ですが二十年近く勤めてもまだ狭い単身者用賃貸マンション住まいなのに不満を覚えルームシェアすれば2LTDに住まえるという共通利益に同意して、それでも都内は無理なので鶴見に物件を見つけ同居に至ったのです。

 菅沼は3Dプリンターで亡くなった愛犬のフィギアを作る副業をしています。当然失敗作も出ますが元が誰かの愛犬だった生きものですからゴミ捨てはできず「お焚き上げ」を業者に依頼しています。

 平井が思い立ってマッチングアプリで出会った男性と交際をはじめます。ひょっとしたら男性と交際できるかもしれないと最後の挑戦を決心したのです。しかし相手はマルチ商法の勧誘が目的だったことが分かって結婚を決定的にあきらめます。いつかはと思って「凍結保存」していた卵子も破棄する決意をします。そのかわり菅沼に「赤ちゃんのフィギア」を作ってもらうことを思いつきます。出来上がった赤ちゃんフィギアを抱いてみると小っささも抱き心地も思った以上にしっくりしたのです。これでいい、満足感が平井を包むのです。

 今年2月発行のこの作品は「性と生殖」に無縁な、レズビアンでもない女性同士がルームシェアするうちにパートナーらしい感覚がめばえてくる、そんな少数派ですが必ず今の日本に存在しているにちがいない「生存のかたち」を淡々と描いた中編の佳作です。

 

 ここ十年ばかりのあいだ、新刊の小説は多く女性作家の作品を読んできました。それはテーマの現代性が女性作家の方が断然迫真性をもっていたからです。なかでも角田光代の『八日目の蝉』と川上未映子の『夏物語』の二編は印象に残っています。

 『八日目の蝉』:「母性」をテーマにした作品です。不倫相手の子供を誘拐した女・希和子の3年半の逃亡劇と、事件後、成人した子供・恵里菜の葛藤が描かれています。出生、愛情、家族などの日常的な要素が独特な切り口でつづられています。女性だけで共同生活を送る「エンジェルホーム」での生活。成人した恵里菜は希和子と同じように妻子持ちの岸田と付き合って妊娠する、エンジェルホームで生活した元同士との再会、そして希和子、恵里菜の「仮の親子」の運命はどうなるのか。

 「母性」や家族、親子の愛情など当然として語られる「価値感」への疑問が意外性をもった手練の筆致で描かれ、映画化もされました。

 

 『夏物語』:大阪の下町で生まれ小説家を目指し上京した夏子。38歳の頃、自分の子どもに会いたいと思い始めます。子どもを産むこと、持つことへの周囲の様々な声。そんな中、精子提供で生まれ、本当の父を探す逢沢と出会い心を寄せていきます。生命の意味をめぐる真摯な問いを切ない詩情と泣き笑いの筆致で描く、全世界が認める至高の物語です世界40ヶ国で刊行されています。性行為を好きになれない夏子が、結婚せずパートナーも持たずに第三者による精子提供を受けて出産することを企図するあたりの物語の緊迫感は小説のおもしろさを十分に堪能できます。

 生殖と性が分離し、したがって結婚や家族というものへの否定的な層が確実に存在していることがリアリティをもって描かれています。

 

 『八日目の蝉』は2007年2月の発行、『夏物語』は2019年7月初版、そして『がらんどう』が2023年2月発行です。角田光代は母性や家族というものに疑問を呈し、川上未映子は生殖と性・結婚の分離の現実を描きました。大谷朝子はついに性と生殖に無縁なパートナシップのリアリティを描くに至りました。文学(芸術)は時代の変化を敏感に感じ取りそれを先鋭に描くことを本質にしています。とすれば2007年から今日に至るあいだに、われわれ世代が当然のように考えてきた、結婚して(婚姻届けを出して)子どもをもって、育てて社会人として独立させ……といった「価値観」がこの20年ほどのあいだに徐々に、しかし確実に崩壊しているのが現実だということを示しているのではないでしょうか。晩婚化、非婚化、少子高齢化の時代の底流で我々の常識がどんどん乖離しているのではないでしょうか。

 

 そうすると「LGBT理解増進法」などという世界の潮流と一歩も二歩も遅れた法案をようやく国会に上程した「政治」はあまりに現実世界とかけ離れていることになります。「差別を許さない」を「不当な差別を許さない」に変更したのを「不当でない差別というものがあるのです」かと追求されて「言葉遊び」と強弁する鉄面皮をさらす「保守系右派」と称される勢力の人たちは「誰のために、何を守ろう」としているのでしょうか。政治が「国民の幸福を実現する」ものだとすれば彼らは「誰の幸せ」を守って「誰の不幸せ」を「見捨てよう」としているのでしょうか。憲法25条に「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と保証されている権利を「彼らの信条」で妨げられている現実にどう「説明責任」を果たすのでしょうか。

 

 政治と経済が国の運営に過剰な影響力を行使している21世紀。特に「行政の暴走」が目立つ安倍政権以降の自民党政権は彼らが「代表している」と自認している「保守層」からも見放されているという現実をもっと深刻に受け止めないと重大な危機に見舞われるにちがいありません。それが「第二保守党――日本維新の会」の台頭です。保守二党制の現実性がひしひしと迫っていることに彼らは気づいているでしょうか。

 

 

 

 

 

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