2024年5月13日月曜日

読書について

  最近私の周りで「本が読めなくなった」「本読むの止めた」という人が多くなってきました。目があかん、根気が続かんようになったというのがほとんどです。

 誤解があるようですが老眼鏡は消耗品です。急に、徐々にの差はあっても老眼度は進行しますから眼鏡が合わなくなって読みにくくなって止めてしまう場合が意外と多いのです。見にくいから根気が続かないことにもつながるわけで60才を超えたら眼科の定期検診は高齢者の心得です。根気と体力は相関関係にありますから高齢に伴う体力の減退を放置しておけば根気が低下するのは当然です。最後に読む環境――書斎です。別に書斎でなくてもいいのですが、椅子に座って姿勢を正して読むことは集中力を高めますし疲労も抑制していい読書につながります。我々世代になれば部屋の一つや二つは空いているでしょうから書斎に設えることをお薦めします。自分好みに模様を変えて絵のひとつも掲げれば一挙に「書斎感」が醸されて読書意欲高まること請け合いです。高齢期の読書力は体力的にも精神的にも準備を怠れば減退して当然なのです。

 

 もうひとつ「日本語」の読書を深めるためには「漢文」と「古文(古典)」の素養が必要なことが忘れられています。日本語は「漢字かな混じり文」で書かれているからです。文字をもたなかった日本人は漢字を自家薬籠中のものにして「やまと言葉」を漢字表記するという離れ業をやってのけました。さらに漢字から「かな文字」を発明して中国語にはない助詞、助動詞を表現できるようにして日本語の文字表記を完成しました。漢字の輸入は「漢文」を通じて行われましたから「漢詩」「漢文」の知識がないと漢字の理解が浅くなってしまいます。かな文字表記されたやまと言葉で古典文学が書かれたのですから古文を理解するとしないではことばの操作性に巧拙が生じます。こうした事情を考えると日本語の読書のために漢文と古文の素養が必要なことが分かると思います。例えば漱石――私が漢文を勉強しようと一念発起したのは『草枕』が理解できなかったからです――鴎外はもちろんのこと荷風も谷崎でも漢文と古文の知識があるとないでは面白さが格段に違ってきます。晩年の読書の醍醐味は若いころ読んだ本がそのころとは違った読み方ができる、理解できなかったところが理解できる、そんな高齢期の読書を満喫するためには漢文古文の知識が必要なのです。

 

 読書はいくつかに分類できます。

 最も一般的なのは「エンターテイメント」としての読書です。わざわざ苦労しなくても楽しめるエンタメはいくつもありますから苦痛を感じるようになれば読書が避けられても仕方ありません。小説好きに早く読書離れする人が多い原因でしょう。それに新刊の小説は溢れ返っていますから選択が難しいのも本離れの原因かもしれません。

 次は「もの知り(博士)」のための読書です。世はクイズ全盛時代ですから断片的な知識量を誇りたい輩は老若男女を問わず読書に励みます。また蘊蓄自慢のおじさん、おじいちゃんもどこの居酒屋にもゴロゴロいます。この種の本好きは年を取れば自然淘汰されて消滅していきます。記憶力の減退は致命的ですから年寄りのこのタイプの読書はつらいでしょう。

 つめ――これが一番多いタイプです、「勉強」のための読書です。「学校の勉強」のための読書は誰でも通過するタイプですし初期の「知識欲」「知的好奇心」に根ざしていますから本格的な読書の入り口になります。ただ最近の傾向として漱石や芥川でさえ教科書から除外されるようになってきていますから学校の勉強が文学へのいざないになるかどうか不安な状況に至っています。

 「仕事」のための勉強、これもだれでも経験する読書です。このタイプは二つあって、とりあえず当面の仕事に即応できればよいというのと、入口は仕事だったがそこから専門的に深めていって一生つづく読書になることもあります。即応タイプは仕事を離れれば自然消滅しますから晩年の読書にはなりません。後者は環境が整えば生涯学習につながりますし本を出版する人も少なくありません。学校の先生にこのタイプは多く本の贈呈を受けたことも少なくありません。仕事ではないけれど何かの利益を得るための読書もあります。趣味のための読書がこれになりますし株などのズバリおカネを儲けるための読書もあります。碁・将棋やガーデニングなどの読書は少々目が衰えても必要に迫られていくつになっても続いていくにちがいありません。

 ここまでに上げた読書は高齢になって条件が悪化すれば本離れするタイプです。あんなに勉強ができていい大学を出て、すごいキャリアを経てきた人でも本離れするのは多分こんな読書生活を過ごしてきた人です。

 

 ショーペンハウアーが読書についてこんなことを書いています。「読書することは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。(略)本を読んでも、自分の血となり肉となることができるのは、反芻し、じっくり考えることだけだ。(略)思想体系がないと、何事に対しても公正な関心を寄せることができず、そのため本を読んでも、なにも身につかない。なにひとつ記憶にとどめておけないのだ。(『読書について』ヨリ)

 齢を重ねて読書量は人並み以上と思っていたのに「自分なりの思想体系」ができていないことに気づくのは多くの人の経験することです。自分の頭で考えずに本を読んでそれで自分の考えが出来たように勘違いしてきたからです。一方で晩年になってかって読んだ本を読み返す、以前気づかなかった発見があったり反対の意味を読み取ったり。それは自分の頭で考えて本を読んでいるのです。

 思想体系とは何でしょうか。「自分」だと思います。結局本を読むという行為は「自分とは何者か」ということの探求なのではないでしょうか。晩年の読書で新しい本に出会った時のよろこびは新たな自分を発見できた嬉しさなのです。

 

 晩年になっても読書を続ける喜びは自分の発見であり、思想体系の確立にあります。自分の頭で考えながら読む楽しさです。読書という「知的遊戯」は晩年に残された最大の「快楽」です。

 

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