2024年8月26日月曜日

ゴーン・サマー

  大谷翔平選手が40-40を達成しました。夏の甲子園優勝校京都国際の韓国語校歌について不愉快なヤリトリがSNS上に溢れていた「うっとうしさ」を一掃してくれました。今年これまで何度彼に救われたことでしょうか、益々の活躍を祈るばかりです。テレビのチャンネルを変えまくって、スポーツ新聞まで買い込んで彼の偉業を味わい尽くした中にこんな記事がありました。

 「ルール改正追い風」昨季から走塁に関するルール改正がありました。その1、投手の牽制数が制限されたこと――1打席の間に2回まで、3回目で失敗すればボークにされる。その2、ベースの1辺が約7.6cn拡大されたこと。これで走塁の距離が短くなり、スライディングでは野手のタッチがよけやすい利点が生まれた。他にもクレイトン・マッカローコーチとの関りも重要な要素として記者は揚げていました。塁間15cmは微妙な短縮加減ですが回数制限は投手心理に影響しているにちがいありません。素人考えで歩幅が広いからなどと想像していましたがなるほどこんなところに記録の背景があったのかと感心させられました。

 

 それはさておき異常な酷暑もなんとか過ぎてくれたようです、週間予報に35度を超える日がなくなりました。台風も来ていますからすんなりとはいかないでしょうがヤレヤレです。自宅はI型のマンションで風通しのすこぶるいいつくりになっていて、東西の掃き出し窓を開いてしきりを無くすと家じゅうの空気が入れ替わります。西陣の築100年近い古家から引っ越した初年はエアコンをつけたのは10日ほどしかありませんでした。桂川のすぐ側というローケーションと二つの学校と公園と田圃という立地もあったのですが本当に過ごしよい環境でした。しかし20年も経つと様子は一変、ここ4、5年は電気代が年金生活を脅かす状況に至っています。それでも習慣というものはおそろしいもので今でも窓を開いて風通しを良くしようとしてしまうのです。遮光断熱の厚めのカーテンに付け替えたのは外気の38度以上の高熱を遮断するためだったはずなのですがカーテンは閉めて窓を開けたままでいるのですから何の効果もありません。しかし感覚的には風通しを良くすれば涼しくなる、という昔ながらの思い込みが残っているのです。

 同様のことは最近流行の「ハンディ扇風機」にもいえます。風を浴びれば涼むとという固定観念と流行もあって老いも若きも扇風機を持ち歩いていますが、38度40度の外気の中で風気を掻き回しても何の効果もないわけですが熱風であっても風が動けば涼しく感じるのでしょうか。

 何年か前から一日に3、4回濡れタオルで体を拭うようにしています。外から帰った時はもちろんのこと家に居ても上半身から太もも、膝周りまで拭うとスッとします。扇風機にあたると爽快感は一層アップします。今年は外出時にも濡れタオルを2枚携行するようにしました(ウエットティシュはたよりないので)。汗が出たら拭うようにしたのです。扇子の風に涼味が加わって少しは暑さがしのげます。

 

 暑さ対策でもっとも効果があるのはベランダのコンクリート壁の水撒きです。午前は東側のベランダを、午後は西側をホースで水撒きします。夕方日の陰ったコンクリート壁に含まれている熱気は側によると肌をさす勢いです。そこでもう一度水をかけるとサーッと涼風が立ちます、昔柄杓で水撒きしたことを思い出します。

 暑さ対策で大事なことは「温湿度計」の活用です。マスコミはエアコンの24時間使用を奨励しますが――なかには就寝時もエアコンを効かして冬用寝具で過ごせなどと煽っていますが――それぞれの「家屋」で状況はまちまちですから一律に決めつけないで最適で経済的なエアコン使用法を見出すと良いでしょう。一戸建とマンションでは条件が違いますし、わが家では気温30度湿度55%を目安にしています。風通しが良いので30度を超えても湿度が45%程度なら汗も出ませんし不快感もありません。反対に外気の条件では28度55%でもたまらなく不快なときもあります。基本条件を定めたうえで自分の感覚にも頼って暑さに耐えていくしかありません。

 

 この夏公園仲間がとうとう4人になってしまいました。毎朝近くの公園で顔を合わす知り合いが何人もいました、公園で体を動かす人と散歩の途中で一休みする人、挨拶をするだけで名前も聞かず家庭状況も知らない同士ですが顔を見れば安心する、そんな緩いつき合いで10年20年過ごしてきました。立派な体格で誤診で大腸がんと診断されて「馬鹿にしとる!」と憤っていたひとが半年たたないうちに脳卒中で亡くなったり、会津から東日本大震災で引っ越してきたチャキチャキの伊達な女性が名残惜しそうに横浜に去って行ったり、入れ替わりがあっても顔なじみが両手に余るほどあったのに、この夏とうとう3人になってしまいました。グランドに幅10m鷹さ7mちかい壁があって「ソフトボールの聖地」と呼ばれているこの公園で毎朝壁投げに興じる「壁投げのおっちゃん」、クリケットの選手でシニア代表でニュージーランド大会にも行った人、学生時代からゴルフの選手で今でも10台のハンデを誇るおにいちゃん、そして私。64才から10年間テニスに没頭して毎朝壁打ちトレーニングで顔なじみになった4人。壁投げのおっちゃんが私より1才上の83才、クリケットとゴルフのふたりは78か79才。壁投げのおっちゃんは半年前顔面に猛打を打ち込まれた後遺症で休みがちですが顔を見せればまだまだ元気でスナップスローで壁まで15m楽々当てる実力者です。

 異変をもたらしたのはコロナと暑さでした。コロナでいっぺんに出てくる人が減ってその上この暑さです。夫婦で早朝散歩を楽しんでいた二組が連れ合い(夫)が亡くなっていつのまにか顔を見なくなりました。この暑さは年寄りには「酷」です。よほど細心に対処しないと80才を超すとやられてしまいます。

 

 戦争で死ぬのと暑さでやられるのと。そんな「窮極の選択」の時代になってしまいました。

2024年8月19日月曜日

国の柱

 広瀬めぐみ議員の不祥事をみて、この人は一体何のために政治家になったのだろうと呆れ果ててしまいます。もはや「怒り」の対象にもなりません。この二年間(2022年7月初当選)でやったことといえば「不倫」と「不正蓄財」では最低の極みです。秘書給与の詐取による不正蓄財は強制捜査を受けましたから場合によっては「逮捕」に及ぶかもしれませんが、政治資金パーティーの売上げを裏金として不正蓄財した可能性のある85人~120人の自民党議員は「お咎めなし」で済みそうですから何とも不明朗な話です(岸田総理が引責辞任を申し出ましたが遅きに失した感があります)。腐り果てた自民党長期政権ですが、なぜこうした不正がまかり通るかを考えてみると「当選回数の多い壮・老年男性議員」による独占的な党運営が行なわれているからです。

 アメリカの政治システムが立派なものとは決して思いません、バイデン、トランプという高齢者が大統領候補として選出されるに至った民主党共和党の二大政党体制は破綻寸前のシステムに劣化しています。しかしバイデンの撤退によって民主党の大統領候補に選出されたカマラ・ハリス副大統領は僅か9年の上院議員という政治経験の59才のアジア系黒人女性であるというところにわが国政治体制と根本的に異なる流動性と柔軟性が備わっています。アメリカ政治のダイナミズムの淵源はこんなところにあるのでしょう。

 

 19世紀は大動乱の世紀でした。数ヵ国の西欧先進国が世界中の非ヨーロッパ系諸国を暴力的に植民地化した時代に、極東の一島嶼国がその暴力を躱(かわ)し政治体制を変革し(1868年明治維新)僅か40年(1905年日露戦争)で彼らに比肩しうる国家に変貌したのですから日本という国は大した国です。超大国清国でさえアヘン戦争という理不尽な暴力によってイギリスに滅ぼされたのですから。

 なぜわが国はこの国難を乗り越えることができたのかを考えてみますと明治維新以前の260年余に及ぶ「徳川幕藩体制」が「西欧化」を可能にする「下準備」を行なっていたからです。経済的には産業構造の前資本主義化が完成していましたし商品経済・金融経済も西欧先進国並みに発達していました。地方分権が200以上の藩で政治的経済的に成熟していましたからそれを束ねて中央集権化する「権力」が成立すれば先進国との競争に耐えうる体制への移行可能性は相当高まっていたのです。なにより「教育水準」は世界一のレベルにありました(幕末全国に1万5千以上の寺子屋があり成人男子の識字率は70~80%に達していました)。現在開発途上国がグローバル化に耐えうる政治経済体制へスムースに移行できず困難に直面しているのはわが国ような準備期間がなかったからです(しかしそれも大方は西欧先進国の植民地支配の負の遺産のせいですが)。

 

 パクス・ロマーノは別として近世以降の国家で260年余平和国家が存続した「徳川幕藩体制」は世界的にも稀有な存在です(清国は270年余継続しました)。鎖国政策をとっていましたが国の経済的規模は世界4位の経済大国でGDPは154億ドル、英国を凌駕していました(1701年英国GDP107億ドル、オランダ40億ドル、スペイン75億ドル、ポルトガル16億ドル、移民直後のアメリカは6億ドル――OECD「世界経済の歴史的統計」の推計から)。中国、インド、フランスは別格ですが1820年には207億ドルに経済成長しています(英国は362億ドル)。現今の混迷する世界情勢の中で日本がどんな政策をとるかの選択に際して「江戸時代の日本」のあり方はもっと見直されるべきです。

 

 敗戦という代償を払わざるを得なかった戦前のわが国政治経済体制の淵源として近年、明治維新の負の側面が評価されがちですが、上に見たように僅か40年で先進国の仲間入りを果たした明治政府の「威勢」は終戦後の経済復興の目ざましさと共に「国家運営のあり方」として再評価されて然るべきで、デフレ、低成長、少子高齢化と今後の見通しが芳しくない現在、何がどう変わって、かく来ったのかの検討が必要なのではないでしょうか。

 

 「政治家・官僚・教師」に有為の人材が登用された、明治維新と戦後日本の共通点はこの「国家の三本柱」にあるのではないか、そう考えます。明治維新も戦後も「国難」の時代でした。欧米先進国の植民地化が緊迫感をもって維新政府に共通認識されていました、なにしろ超大国中国が英国に滅亡されたのですから。敗戦国日本は連合国に占領され、折りしもアメリカとソ連という二大国が対立を深める状況でどちらかの勢力圏下に組み込まれ、独立への道が閉ざされかねない情勢にありました。この二つの時代に優秀な「官僚」が能力を発揮して国難を乗り越えました。政治目標が明確でしたから政治家は熱意をもって国家運営にあたりました。そして何れの時代も「教育は国家百年の大計」と位置づけられて充実が図られました。

 

 今この三本柱が「危急存亡のとき」を迎えています。政治家の劣化は誰の目にも明らかです。

 人事院発表によると、国家公務員試験の一般職の申込者が前年度比7.9%減の2万4240人で、現行試験制度が始まった12年度以降で最少を更新しました。

 公立学校教員の2024年度採用試験の志願者は全国で12万7855人で前年度から6061人(4.5%)減少したことが各地の教育委員会への取材で明らかになりました。

 

 公務員も教員も労働環境が劣悪で給与水準も民間と比較して決して恵まれていません。改善は必須ですがそれと併せて「使命感」「やりがい」といった「国を背負っているんだ」という精神的充実感もなおざりにできない要素です。いやむしろこっちの方が大事かもしれません。

 政治家の質的向上は「職業化した」『二世議員』を排除することが改革の第一歩です。

 

 言葉だけが独り歩きして「国難」が手垢にまみれた言葉に成り下がっていますが間違いなく今は「国難」を迎えています。今までの延長上に解決策はないでしょう。何かを「捨てる」覚悟が必要なのですがそこまで性根を据えて政治に取り組んでいる政治家はいません。自民党の総裁選と民主党の代表選が行なわれます。すばらしいリーダーの出現を『切望』しています。

2024年8月12日月曜日

株と愛国心

  先日久しぶりに市内へ出かけました。猛暑の中外国人旅行者で溢れていましたが半年前と比べてアジア系が増えているようです。特に台湾(中国?)と韓国の人が目立ち彼らの余裕に比べて日本人のやつれた様子が印象に残っています。もちろん外国旅行しようというのですから豊かな層の人たちが来ているのに対して日常生活の日本人とは差があっても仕方ないのですが、それにしても彼らから感じる豊かさにカチンときてしまいました。全体のレベルがどの国も上がっていますから以前のようにオシャレ度に歴然と差があってどんなに着飾ってもどこかダサイ感じがあったのがそれが無くなっていて、その上に豊かさが加わっているのですから普段着の日本人が疲れて見えるのは仕方ないのでしょうか。実際1人当GDPでみれば台湾も韓国もわが国を抜いているのですが(わずか千ドル程度ですが)納得いかないというかナメラレテいるというか、決して差別しているわけではないのですが口惜しいのです。やっぱりこれは「円安」のせいです、2年も実質賃金が前年比マイナスを続けているのですから我が国国民は疲弊して当然なのです。2年前ということは安倍さんが暗殺された2022年7月の翌月8月から今年6月までの23ヶ月になります、これはどういうことなんでしょうか。

 安倍さんが2度目の総理に就任した2013年度の円は100円前後でした。それが2022年には138円になったのですから約40円、安倍さんは円安にしたことになります。一強を誇った安倍さんが亡くなって「重し」が無くなったせいかこの年の年末にかけて物価高が勢いを増しています。ということは企業の円安耐久力がぎりぎりの限界に近づいていたのが安倍さんの死で一挙に噴き出したのかもしれません。そもそも2021年央の日経の論調では、2015年に金融当局が「けん制発言」を出した『下限容認ライン125円』がこのままいくと下限が上がる可能性があるのではないかと危惧しています。それから1年でその下限を突破して2022年末には138円にもなってしまっているのですから企業が辛抱できなくなっても仕方なかったのです。その後も――菅さんも岸田さんも円安を放置したままでした。そしてついに160円台を突破するに及んだのです。これは異常です。

 

 ところがこれだけ国民を(そして輸出関連の大企業を除いた多くの企業も)苦しめている「円安」を「株式市場」は『歓迎』なのです。輸出関連企業の好業績を背景に円安が進めば進むほど株高は亢進しついに7月11日史上最高値の「4万2222円02銭」をつけたのです。専門家は今年中には4万6千円も現実味があるなどとアドバルーンを上げるかと思えばマスコミも「新NISA」をはやし立て特集を組む始末です。

 ところが8月5日ブラックマンデーを上回る4400円を超える大暴落し株価は一挙に31,458円に落ち込んでしまったのです。狼狽売りの反動でその後持ち直しましたが9日現在の株価は3万5025円です。

 暴落の原因は何か。(1)アメリカ経済減速への懸念(2)円高ドル安の加速(3)中東情勢の緊迫化(4)投機筋の仕掛け…などを専門家は指摘しますがどうなのでしょうか。

 

 最近私が驚いてるのは「おまかせ投資」というものです。新NISAがらみでいくつもの同種サイトが「おまかせ」を売っていますが「値下がりの責任」は「おまかせ」さんがとってくれるのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。結局「まかせた」本人の責任になるのが現実です。「株のことなんて分からないもの」という反論があるかもしれませんがそれなら「株には手を出さない」のが常識です。政府か銀行・株屋さんかSNSかは知りませんが他人の尻馬にのって株などに手を出すものではないのです。

 

 株の乱高下を目にしてつくづくお金のことは『信頼』が全てだと再認識しました。私が株について唯一信頼しているのは「バフェット指数」というものです。有名な投資家のバフェット氏は「時価総額/GDP」が[1]を超えたら株式市場は「割高」になっていると考えるのです。[857/591=1.45]これが8月9日現在のわが国の指数です。大体日本のGDPは600兆円くらい、株式市場の時価総額はこのところの平均は900兆円、とすると[1.5]がわが国のバフェット指数です。ちなみにアメリアの7月の指数は[1.87]になっています。許容できる上限をどうみるかですが[1.25~1.3]くらいは許容範囲としても1.5も1.87も「バブル」です。この傾向はここ数年続いていますがどこからも「バブル」という指摘・批判はありませんでした。

 

 繰り返しますが経済は「信頼」が要諦です。現状で「信頼」できるかどうかの視点は次の4点です。

 (1)アメリカ(中国)は信用できるか(2)株式市場は信用できるか(3)岸田さんは信用できるか(4)植田・日銀総裁は信用できるか

 (4)を除いて他は信用できません。植田さんも来年いっぱいの彼の日銀の運営の仕方を見て判断します。

 アメリカは戦後の一時期を除いて信用していません。よくいわれますが、モンロー主義で「自国第一主義」があの国の基本姿勢です(それでいえばわが国の今の政治家位でしょう、自国よりも自国の国民よりもアメリカのご機嫌を第一にしているのは)。わが国は1968年から2010年まで世界第2位の経済大国でした、今の中国のように世界に影響を与える存在たりえたのです。それを「アメリカの脅し」にひるんで「失われた30年」に追い込まれたのです。根性なしの政治家と官僚のせいです。

 中国はこれからのあの国の、低成長に追い込まれたあの国の振る舞いを見てから判断しましょう。

 国民を苦しませている円安を歓迎している限り株式市場は信用できません。国民の繁栄と株式市場の成長が軌を一にするまで株式市場は一般国民の「相棒」ではないでしょう。

 岸田さん(アベノミクスを継承する自民党政権)は円安と「企業と富裕層優遇」の姿勢を変えない限り信用できません。

 植田さんは最悪の黒田前日銀総裁の後始末を任されただけに「敵」はあっちにもこっちにもいて、なかなか「正常化」の「正道」を推し進めることはできないでしょうが、ちょっと株が乱高下したら狼狽する「プチ富裕層」など相手にせずに「125円」を目指して粛々と「円高」に誘導してください。国債の償却は、リーマンショックやらなんやらでこれまで何十兆円も「支援」して「倒産」を「Too Big to fail」と「救ってきた」銀行に「利子徳政令」でも発して「国の再建」に協力させるくらいの『剛腕』をふるって『正常化』に突き進んで下さい。

 

 外人観光客がやたらに増えたら「円安」で「ナメられているなぁ」と感じる感覚――これを「愛国心」と呼ぶのなら私は「愛国者」でいたいと思います。

 

 

2024年8月5日月曜日

柔道と武士道

  パリ五輪はこれまでのオリンピックほどワクワク感がありません。なぜかと考えたら大谷翔平選手のせいのような気がします。野球の本場アメリカMLBでナンバーワンの座を占めホームランを量産しているのですから少々のスポーツの活躍は陰に隠れてしまって当然かもしれません。165キロの剛速球をホームランしたときの大谷選手の肉体が受ける衝撃はどれほどのものなのでしょうか。それを繰り返し蓄積する損傷はこれまで人間の経験した限界を超えているにちがいありません。メジャーですからその辺の研究と備えは抜かりないと思いますがそれに堪(こた)える大谷選手の意志と鍛錬は人類未踏のものです。それはオリンピック選手の練磨に劣るものではないでしょう。一競技が何段階にもクラス分けされたオリンピック種目の優勝を全部合わせたより以上の位置にいる大谷選手がさわやかに楽しんでいるのを見ている私にとって「苦難の道のり」の「ストーリー」を見せられるのに忌避感を抱いてしまうのです。

 私ひとりかと思ったらそうでもないようで「騒いでいるのはマスコミだけで『つくられた熱狂』が空々しい」というコメントがネットにありましたからちょっと安心しました。

 

 そのパリ五輪の柔道女子52キロ級で2回戦敗退した阿部詩選手の試合後の号泣に違和感を覚えます。彼女は「敗戦の備え」をしていなかったのでしょうか。技ありを取ったあとがむしゃらに「押し」まくりました。相手の思うつぼです、鮮やかに一本を取られ『完敗』を喫しました。「連覇」が容易(たやす)いものでないことは彼女も十分承知していたはずです。それを超えるための血の滲むような練習に耐えたはずです。当然「敗戦の備え」も戦術として練磨したにちがいありません。にもかかわらず「冷静さ」を忘れた彼女の敗戦は甘受すべき結果でした。「礼に始まり礼に終わる」柔道で『号泣』は慎むべき行為です。なのに「詩コール」は何なのでしょうか。

 東京五輪64でオランダのアントン・ヘーシングに負けたとき、日本柔道がスポーツ柔道に敗れたと思いました。でも日本の柔道は正々堂々の「武道柔道」だから、という負け惜しみがあったのは事実です。柔道が「点取りゲーム」化したときにも日本柔道は「一本勝ち」にこだわってきたと思います。2020東京五輪の前頃からそれが実って柔道が「正しい姿」に復活しました。技あり、一本勝ちが主流になっています。元の「日本柔道」にもどったのです。

 では「日本柔道」とは何か?それは「武道」でありその底には「武士道」精神が息づいていると思います。

 

 武士道について新渡戸稲造は次のように書いています(『武士道』岩波文庫からの引用)。

 私が大ざっぱにシヴァリーChivalryと訳した日本語は、その原語においては騎士道というよりも多くの含蓄がある。ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言すれば「武士の掟(おきて)」、すなわち武士階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージュ)である。(筆者注:ノーブレッス・オブリージュは、身分の高い者はそれに応じて果たさなければならない社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観です

 礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する。吾人は敬虔なる心をもって、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬(ねた)まず、礼は誇らず、驕(たかぶ)らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤(いきどお)らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。

 知識ではなく品性が、頭脳ではなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。(略)あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行なわれなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銭をもって支払わるべきでなかった。価格がないからではない、評価しえざるが故であった。この点において武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃金および俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われうる。(略)弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払ではなくして捧げ物(ささげもの)であった。

 名誉の失われし時は死こそ救いなれ、/死は恥辱よりの確実なる避け所

 「血を流さずして勝つをもって最上の勝利とす」。その他にも同趣旨の諺があるが、これらはいずれも武士道の窮極の理想は結局平和であったことを示している。

 

 この本は欧米先進国の知識人に武士道を理解させるために書かれた(明治32年・1899年)英文を矢内原忠雄が訳したものです。したがって最も欧米人が理解しやすい「ノーブレッス・オブリージュ」を武士道の本質として挙げているのです。さらに「血を流さずして勝つを最上の勝利とする」を窮極の理想として示すことで「ハラキリ」が武士の象徴的作法と誤解されていた当時の風潮を正そうとしています。そして功利主義を信奉する欧米先進国との根本的な相違点として、「価格」に「反映できない価値」を重視するのが武士道の真髄であると説くのです。

 

 「礼に始まり礼に終わる」という作法を柔道の根本とするのは、勝ち負け以上に「品性」を重んじる柔道の精神を具現化したいからで、「点取りゲーム」化した柔道を技あり、一本勝ち重視のスタイルに戻したのもそこに真意があるのです。

 阿部詩選手が負けて号泣したのはこうした柔道の精神と余りに懸け離れた態度であったと言わねばなりません。それは彼女も分かっているはずで、にもかかわらず号泣してしまったのはマスコミが彼女を追い詰めてしまったからです。兄妹そろって連覇というストーリーを追いつづけたマスコミは知らず知らずのうちに勝つことを至上命題に彼女を追い込んでいたのです。「つくられたストーリー」による「つくられた熱狂」。五輪批判をする一方でマスコミ自身が「商業主義」を追い求めるという矛盾。

 オワコンと言われて久しいマスコミ各社はいつになったら本来の「ジャーナリズム」に回帰するのでしょうか。