2024年8月5日月曜日

柔道と武士道

  パリ五輪はこれまでのオリンピックほどワクワク感がありません。なぜかと考えたら大谷翔平選手のせいのような気がします。野球の本場アメリカMLBでナンバーワンの座を占めホームランを量産しているのですから少々のスポーツの活躍は陰に隠れてしまって当然かもしれません。165キロの剛速球をホームランしたときの大谷選手の肉体が受ける衝撃はどれほどのものなのでしょうか。それを繰り返し蓄積する損傷はこれまで人間の経験した限界を超えているにちがいありません。メジャーですからその辺の研究と備えは抜かりないと思いますがそれに堪(こた)える大谷選手の意志と鍛錬は人類未踏のものです。それはオリンピック選手の練磨に劣るものではないでしょう。一競技が何段階にもクラス分けされたオリンピック種目の優勝を全部合わせたより以上の位置にいる大谷選手がさわやかに楽しんでいるのを見ている私にとって「苦難の道のり」の「ストーリー」を見せられるのに忌避感を抱いてしまうのです。

 私ひとりかと思ったらそうでもないようで「騒いでいるのはマスコミだけで『つくられた熱狂』が空々しい」というコメントがネットにありましたからちょっと安心しました。

 

 そのパリ五輪の柔道女子52キロ級で2回戦敗退した阿部詩選手の試合後の号泣に違和感を覚えます。彼女は「敗戦の備え」をしていなかったのでしょうか。技ありを取ったあとがむしゃらに「押し」まくりました。相手の思うつぼです、鮮やかに一本を取られ『完敗』を喫しました。「連覇」が容易(たやす)いものでないことは彼女も十分承知していたはずです。それを超えるための血の滲むような練習に耐えたはずです。当然「敗戦の備え」も戦術として練磨したにちがいありません。にもかかわらず「冷静さ」を忘れた彼女の敗戦は甘受すべき結果でした。「礼に始まり礼に終わる」柔道で『号泣』は慎むべき行為です。なのに「詩コール」は何なのでしょうか。

 東京五輪64でオランダのアントン・ヘーシングに負けたとき、日本柔道がスポーツ柔道に敗れたと思いました。でも日本の柔道は正々堂々の「武道柔道」だから、という負け惜しみがあったのは事実です。柔道が「点取りゲーム」化したときにも日本柔道は「一本勝ち」にこだわってきたと思います。2020東京五輪の前頃からそれが実って柔道が「正しい姿」に復活しました。技あり、一本勝ちが主流になっています。元の「日本柔道」にもどったのです。

 では「日本柔道」とは何か?それは「武道」でありその底には「武士道」精神が息づいていると思います。

 

 武士道について新渡戸稲造は次のように書いています(『武士道』岩波文庫からの引用)。

 私が大ざっぱにシヴァリーChivalryと訳した日本語は、その原語においては騎士道というよりも多くの含蓄がある。ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言すれば「武士の掟(おきて)」、すなわち武士階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージュ)である。(筆者注:ノーブレッス・オブリージュは、身分の高い者はそれに応じて果たさなければならない社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観です

 礼の最高の形態は、ほとんど愛に接近する。吾人は敬虔なる心をもって、「礼は寛容にして慈悲あり、礼は妬(ねた)まず、礼は誇らず、驕(たかぶ)らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤(いきどお)らず、人の悪を思わず」と言いうるであろう。

 知識ではなく品性が、頭脳ではなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」。(略)あらゆる種類の仕事に対し報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行なわれなかった。金銭なく価格なくしてのみなされうる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銭をもって支払わるべきでなかった。価格がないからではない、評価しえざるが故であった。この点において武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃金および俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われうる。(略)弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払ではなくして捧げ物(ささげもの)であった。

 名誉の失われし時は死こそ救いなれ、/死は恥辱よりの確実なる避け所

 「血を流さずして勝つをもって最上の勝利とす」。その他にも同趣旨の諺があるが、これらはいずれも武士道の窮極の理想は結局平和であったことを示している。

 

 この本は欧米先進国の知識人に武士道を理解させるために書かれた(明治32年・1899年)英文を矢内原忠雄が訳したものです。したがって最も欧米人が理解しやすい「ノーブレッス・オブリージュ」を武士道の本質として挙げているのです。さらに「血を流さずして勝つを最上の勝利とする」を窮極の理想として示すことで「ハラキリ」が武士の象徴的作法と誤解されていた当時の風潮を正そうとしています。そして功利主義を信奉する欧米先進国との根本的な相違点として、「価格」に「反映できない価値」を重視するのが武士道の真髄であると説くのです。

 

 「礼に始まり礼に終わる」という作法を柔道の根本とするのは、勝ち負け以上に「品性」を重んじる柔道の精神を具現化したいからで、「点取りゲーム」化した柔道を技あり、一本勝ち重視のスタイルに戻したのもそこに真意があるのです。

 阿部詩選手が負けて号泣したのはこうした柔道の精神と余りに懸け離れた態度であったと言わねばなりません。それは彼女も分かっているはずで、にもかかわらず号泣してしまったのはマスコミが彼女を追い詰めてしまったからです。兄妹そろって連覇というストーリーを追いつづけたマスコミは知らず知らずのうちに勝つことを至上命題に彼女を追い込んでいたのです。「つくられたストーリー」による「つくられた熱狂」。五輪批判をする一方でマスコミ自身が「商業主義」を追い求めるという矛盾。

 オワコンと言われて久しいマスコミ各社はいつになったら本来の「ジャーナリズム」に回帰するのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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