古事記の〈中つ巻〉「応神天皇」の段に別に章を設けて「渡来人」についての記述があります。概要を記すと次のようになっています。
新羅から渡り来たった人びとを使って武内宿禰が百済池を造った。亦百済王に「賢しき人」を貢上(たてまつ)れと命じて和邇吉師(わにきし)という人が論語と千字文をわが国にもたらした。又秦造(はだのみやっこ)、漢直(あやのあたひ)の祖(おや)、仁番(にほ)亦の名、須須許理(すすこり)が渡来した。この須須許理は醸造の業をわが国に伝えた人である。
秦氏などの渡来人は土木業にすぐれた技を伝えその後のわが国の国家建設に絶大な影響力を及ぼしましたし論語と千字文を伝えたことで「文字」をもつことのできたわが国は「野蛮」から「文明」の段階に成長できる礎を築くことができたのです。
西郷信綱の『古事記注釈』によると、秦氏とは百済の百二十県の人びとを率いて帰化した氏族で、秦始皇帝三世孫・孝武王の出自であるとあります。もちろんこれを額面通りに信じることはできませんが、秦氏の多くが渡来人でありながら伴造に任じられるに至った経緯を神格化したものと解釈すべきでしょう。また漢直についても十七県を率いて渡来したとあるのは秦氏と同じ論理でしょう。
この渡来人の章で特に目を惹く記述があります。「平安初期に作られた『新撰姓氏録』には、京畿に住する有力千八百八十余氏の出自を(略)かかげているが、うち中国系を称するもの、朝鮮半島系を称するものそれぞれ百六十余氏、併せて三百三十氏に及んでいることをいっておく」
京都を中心とした畿内の1880氏の内の330ですから単純に言って17.5パーセントを渡来系が占めていたというのですからこれは驚きです。京都の右京区は秦氏の根拠地で太秦(うずまさ)という地名が今もありますし、近くの蚕ノ社は秦氏のもうひとつの主業養蚕と職(はたおり)の主神で、また松尾大社稲荷神社を奉じ殖産と致富にたけた大族であったことは周知のところですがそれにしても渡来系の人たちが二割近い人口を占めていたという事実は無視できません。当然同じ地域に住しているのですから異種族間の婚姻も多く成立したでしょうから何世代も累ねるうちに完全な混血種に変貌し今日に至ったとみるのが正常な見方でしょう。
私たちのちょっと上の世代――昭和ひとけた生れ以上の人(戦前の教育を受けた世代)には学歴に関係なく桓武天皇の母后――高野新笠(たかののにいがさ)が渡来人二世であったことは常識になっています、少なくとも京都では。
又「仲哀天皇」の段には「神功皇后の新羅征討」の章があります。これが後に「神功皇后の三韓征伐」となって日本不敗神話の嚆矢となり、蒙古襲来、日清・日露と不敗を誇る我が日本は神国であるから聖戦「大東亜戦争」は負けるはずがないのだとして第二次世界大戦へ突入していった、そうした戦前の国民思想の源流となったとしたら『古事記』は不幸な読まれ方をしたものです。曲がりなりにも戦前世代に属する私も長い間「不敗神話」を信じていました、周りの大人からのまた聞きの知識としてですが、それが二十年ほど前「白村江(はくすきのえ)の戦い」を知って呆然としました。天智2年(663年)新羅に滅亡された百済からの要請にこたえて救援軍を送った日本・百済連合軍と唐・新羅軍が白村江(現在の錦江河口付近)で戦闘、わが国連合軍が完敗した戦争です。学校の歴史でも習わなかったし歴史小説にも白村江の戦いは出てこなかったのでまったく知識をもっていませんでした。60才を過ぎて日本史の専門書を読んでこの「百済の役」を知ったのです。考えてみれば秀吉の朝鮮出兵も結果的に軍を引かざるを得なかったのですから敗戦に他なりません。出世譚太閤記として神格化されてきましたから「敗戦」ということばの使用を憚られたのでしょうか。
永らくわが国では「不敗神話」と共に「万世一系の単一民族」という神話が罷り通ってきました。それがベースになって今の「ヘイト」につながっています。しかし上に述べた渡来人の記録を真摯に受け止めれば「日本民族」は大和民族と中国系と朝鮮半島系の渡来人との混血と見るのが正当な考え方でしょう。文字や仏教の伝来という日本文化の基礎も渡来人によるものですから保守の一部の層の中国や韓国(朝鮮半島人)を敵視する考え方が馬鹿馬鹿しくなってきませんか。明治維新政府が作った歴史――特に戦前政府の戦争貫徹のための「皇国歴史」から脱却し東アジア史のなかの日本歴史という視点を子どもたちには教えてやりたいものです。
古事記を読んでいてつくづく思うのは「権力者は歴史をつくる」ということです。自己の権力の正当化のために都合よく歴史をつくるのです。ひとつ例を挙げれば古事記における「出雲」の扱いです。実際は勢力均衡して永い「権力闘争」があって正邪の関係が成立したのですが古事記では完全なる従属関係で出雲は描かれています。
ここで持ち出すのも憚られるのですが最近の自民党西田昌司参議院議員のひめゆりの塔をめぐる「沖縄発言」と「歴史の書き換え」を一緒くたに論ずることはできません、まったく次元の異なる問題です。彼の発言は単なる勉強不足、無学・蒙昧の極み以外の何ものもありません。彼は京都選出の議員ですが沖縄戦の最激戦地であった「嘉数(かかず)の戦い」の主力部隊、第62師団石部(いしぶ)隊の多くが京都出身者で編成されていたことを知っているでしょうか。その嘉数台公園にある「京都の塔」に2563柱の霊が合祀されておりその碑文にはこう記されています。
高台附近は主戦場の一部としてその戦闘は最も激烈をきわめた。(略)この悲しみの地にそれらの人びとの御冥福を祈るため京都府民によって「京都の塔」が建立されるにいたった。/再び戦争の悲しみが繰りかえされることのないようまた併せて沖縄と京都とを結ぶ文化と友好の絆がますますかためられるようこの塔に切なる願いをよせるものである。
もし彼が京都の歴史を学ぶなかから政治に志すに至っていたとしたら沖縄に行ったらしい30年前であったとしても京都の塔を訪れていたはずですが彼はそうはしていなかったようです。
そんな彼ですから北陸新幹線延伸計画で「京都縦断ルート」という「千年の愚行(京都仏教界)」を与党の「整備委員会」委員長として推進しようとしたのです。
京都盆地の地下には約211億トンという琵琶湖に匹敵する豊富な水量の水瓶(京都水盆)があります。この水のお陰で京都の産業と文化は栄えてきました。西陣織や京友禅、伏見のお酒も京豆腐、京湯葉と数え上げればキリがないほどそのめぐみは豊かです。またこうした地下水による「均衡」が京都盆地の安定につながっているかもしれません。工事は「大深度地下(地表から40米以下)」を貫く工法が予定されています。当然地下水への影響は無いとは言えないでしょうし万が一「濁り」がでるようなことがあれば産業への悪影響は免れませんし発生する大量の「残土」はどうするのでしょうか。地下水の移動が起れば地盤は均衡を保ったままでいられるのでしょうか。
不安満載のこんな計画を詳細な調査も行なわず市・府民への説明不十分なまま何故断行しようとするのでしょうか。彼は京都の人なのでしょうか。郷土愛――京都を愛しているでしょうか。
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