2012年3月19日月曜日

健康院と楽古学

世の中に有りそうで無いもの―「健康院」と「楽古学」もそのうちの一つだろう。

 幼少の頃から病弱で、それをいいことに肉体を鍛錬するとかスポーツに挑戦するとかとは一切係わりなく60歳を超えて数年、ある日突然「禁煙」に成功した。怠惰な日常を繰り返していた肉体はほとんど「経年疲労」の限界に達していたに違いないから、もし禁煙していなければ現在の私は無かった可能性が高いと思う。禁煙の効果は抜群で体調が一変、そうなると「欲」がでてくるもので虚弱な肉体をせめて標準に、スポーツも何かひとつくらいは人並みにやってみたいという願望が芽生えてきた。
 そこで困ったのが病気で無い私の身体を検査して、体力を向上させる運動のメニューや体力相応のスポーツを選んでくれる施設がどこにも無いことだった。無茶をしてきているから筋力も骨年齢も相当平均より劣化しているに違いない。そんな体力の私にテニスは無理だろうか。など、病気ではないが決して健康とはいえない私の体力維持、更に向上を図るような相談に乗ってくれるところが我国にはまったく無いのだ。

 11日の「日経・今どき健康学」で中村雅美江戸川大教授が「健康院」を提唱していた。社会保障改革が叫ばれている今、医療費増大を防ぐことは重要な課題である。健康ではないが病気でもない人を病気にさせない―「予防」と、健康な人を健康な状態に維持することは高齢化の進行していく我国が喫緊に取り組むべき施策であり「健康院」は十分検討に値するものだと思うがいかがだろうか。

 さて世は挙げて美術展ブームである。にもかかわらず日本の古美術を正しく理解して楽しむ能力・技術を体系的に学ぶ―いわば「楽古学」とでも呼べるようなものが無い。考古学や古文書学はあるが専門的過ぎて一般には敷居が高く又分野が狭い。屏風、掛け軸、絵巻物、錦絵や草双紙など日本古美術といわれるものの多くは絵画的要素と文字的要素が渾然一体となっている。今この「文字」が判読できて理解できる人口は極めて限られている。展覧会でどんなに優れた美術品を目にしても文字的理解が伴っていないから楽しみは半減いやそれ以上に損なわれている。これは大げさに言えば『文化の世代的断絶』である。

 読めて漢文・古文の素養と美術鑑賞力を培う―『楽古学(らっこがく)』を勧める所以である。

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