2012年5月14日月曜日

胡乱(うろん)

私はときどき思ふのである。立憲政治とか代議政体とか云ふやうなものも、果たして日本の国民性に合致した政体であるかどうかと。立憲政治は討論政治であり、雄弁政治であり、煽動政治である。然るに前にも云ったやうに由来東洋人は偉い人程おしゃべりをしない。古来大政治家が雄弁家だったと云ふ人を聞かない。(略)何か西洋の真似をしないで、もっとわれわれの国民性に順応した新しい政体がなかったものだろうか。若し西洋の文化が這入って来なかったなら、或いは東洋は東洋流の別個の政体が発達しなかったものだろうか。
 
これは谷崎潤一郎の言葉である。ここ数年の政治を見ているとこの昭和2年の文豪の辞(「饒舌録」より)がみょうにリアリティを帯びてくる。まったく機能しない政治状況の因って来る所以を考えると『政治家の言葉の軽さと嘘っぽさ』がありそれが国民の政治への信頼を失墜させ既成政党離れを増幅したことは疑いがない。
大体最近の政治家は『演説・雄弁』を誤解している。それは決して『テクニック』ではない、にもかかわらず彼らは『言葉の技術』と勘違いしている。野田首相はここ数代の総理中では演説上手といわれているがそれが却って彼の演説を『胡散臭い』ものにしている。「辻立ち」で鍛えた彼は演説に自信を持っているのだろう、言葉の力で野党と国民を牛耳れると信じているように映る。しかし、それにもかかわらず彼の言葉からは『正義と公正』がまったく感じられないから彼が思っているほど政治が進行しない。野党時代に彼が「正義」と感じ「公正」を訴えた真情とまったく逆の政治のあり方をいくら言辞を弄して訴えても、国民はその『胡乱』さを見抜いている。
彼はまだ言葉の不完全性を知るに至っていない。

谷崎はそれをこう示教している(「現代口語文の欠点について」より)。
日本語は不完全な国語だ、(略)到底欧州語のやうに、説いて委曲を盡すことは出来ない、と云ふ人があるかも知れない。(略)全体人間の言葉なんてさう思ひ通りのことを細大洩らさず表現できるものではないのだ。(略)然るに西洋人と言ふものは、なまじ彼等のヴォキャブラリーが豊富なために、さう云う説明のでき得べくもないことを、何とか彼とかあらん限りの言葉を費やして云ひ盡さうとして、そのくせ核心を摑むことは出来ず、愚かしい努力をしてゐるやうに私には見える。(略)言葉を費やせば費やすほど、全面を同時に具象的に云ゐ表すことが至難になる。

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