2012年9月17日月曜日

想 滴滴

 古稀を超えたというのに未だにリアリティをもって死を感じることができないでいる。もし死を実感すると人間はどんな姿をみせるのだろう。「隠逸の詩人」陶淵明(365~427)は「形影神」という詩で死についてこんな風に詠んでいる(形影神、形はからだ、神はこころを表している。擬人化した形影神がそれぞれに死に対する考えを述べる)。

 まず「形」がこう詠う。「天地は長(とこし)えに没せず、山川は改まる時無し」自然は不変である。「人は最も霊智なりと謂うも、独り復(ま)た玆の如くならず」人は最も優れた存在だと威張っているが自然のように不変でいられるわけではない。「我に騰化(とうか)の術無ければ、必ず爾(しか)らんこと復た疑わず」私には不死の登仙の術などあるはずもないから死ぬことは避けられない。「願わくは君、我が言を取り、酒を得なば苟(いやしく)も辞する莫れ」君(影)よ、私の言わんとすることを汲んで、酒を手に入れたら決して飲むのを止めないでくれたまえ。―この「形」の死のイメージは死を恐れて酒に逃げる弱い人間の「死」に対する姿であり、淵明より古い漢詩人が詠った詩はこの型が多い。「古詩的悲哀」の死とでも名づけようか。
 「影」はこれに応えて。「生を存するは言う可からず、生を衛(まも)るすら毎(つね)に苦(はなは)だ拙し」いつまでも生きることなどは論外、この命を維持することさえうまくできないでいる。「身を没すれば名も亦た盡く」死んでしまえば生前の名声などすぐに消えてしまう。「善を立つれば遺愛あらん、胡為(なんす)れぞ自ら竭(つ)くさざる」思うに善行を重ねれば後世にも余恵を及ぼすという。ならば精一杯努力せずにおられようか。「酒は能(よ)く憂いを消すと云うも、此れに方(くら)ぶれば詎(なん)ぞ劣らざらん」酒は憂いを消してくれるというけれども善行を積むことのほうが優っていることは明らかだ。―この考え方は「儒家的」である。
 ふたりの考え方を聞いた神(こころ)がこう釈(かんがえ)をいう。「老少、一死を同じくし、賢愚、復た数うる無し」老いも若きも必ず一度は死ぬ、賢者であろうと愚かであってもそのことに変わりはない。そう述べたあと神はこう諭す。酒は百薬の長というけれどほどほどにしないと命を縮めてしまう、善行を積むのはいいけれど余り身を清く保とうと気を張り詰めすぎると体を壊してしまう、運を天に任せる位の気楽さでいいじゃないか、と。「大化の中に縦浪(しょうろう)し、喜ばず亦た懼れず」「応に尽くべくして便(すなわ)ち須(すべから)く尽くべし、復た独り多く慮ること無かれ」人生の大きな変化に身を任せ、喜びもせず懼れもせず、命尽きるときに尽きればいい、もうあれこれと思い悩むのはやめなさい、と。―これこそ老荘の「死生一如」の境地といえよう。
 そして淵明は別のところ(雑詩其の一)でこう覚悟を述べている。「盛年、重ねては来らず、一日、再びは晨(あした)なり難し」「時に及びて當に勉励すべし、歳月は人を待たず」盛んな若い時は二度とやってこない、この日が又明日やってくるとは限らない、今を精一杯生きよう、歳月は人を待ってくれないのだから。

 快楽主義といえば刹那的に捉えられ勝ちだが、今という時を精一杯楽しんで充実させようという考え方が、淵明の時代から今日まで中国には脈々と連続していることが分かる。(この稿は「陶淵明と白楽天(下定雅弘著)」を参考にしています)。

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