2012年12月10日月曜日

日本語の面白さ

 流行語大賞なるものが発表になった。今年も又お笑い芸人の一発ギャグが大賞を受けた。最近強く感じるのは芸人の人気や流行が臆面もない『仕組まれた』流れになっていることだ。若い人や子供がその流れに乗って人気が出ているように装われているが、それは仲間はずれを恐れての『追従』であって『熱狂』ではない。大賞を取った芸人が翌年消えてしまうのは至極当然のことになる。

 言葉に流行り廃りがあるのは古今を問わない。例えば今普通に使っている「です、であります」は江戸時代芸者や遊女の「職場言葉」であった。それが明治維新になって山手の言葉になった、その経緯はこうである。江戸時代諸藩の下屋敷のあった山手に維新政府の官僚や役人が地方(薩長土肥など)から移り住まうようになった。当然ながら彼らは芸者遊びや郭通いをしたがそこで使われている「です、であります」を彼らの共通語にしようと考えた、何故ならそれぞれお国訛りの強い方言だったから意思の疎通に齟齬を来たしていた、それを解消するために。やがて文部省に国語調査委員会が設置され標準語が制定され「です、であります」はめでたく標準語となり、今日に及んでいる。
 以上は新潮文庫「日本語の年輪・大野晋著」からの引用だが外にこんなことも書いてある。

 「おめかし」をするとは、美しくない人も美しいようにいろいろ手を加えることである。これは平安時代の最も高い美の範疇の一つとしての位置を占めていた「なまめかしい」からきている言葉だ。「なま」という言葉は、その状態や動作が、未熟であること、いい加減或いははっきりしないということを表す言葉であった。「めかし」というのは、「物がそのもの本来の様子に見える」ということと、「ほんものではないがほんもののように見える」ということの、二つの意味を持っている。これが結合した「なまめかしい」は、本当は十分な心づかいがされているにもかかわらず未熟のように見える、さりげなく、何でもないように見える。そんな慎ましやかな美しさを表しているのである。
 平安朝の宮廷で、「貴(あて)」と並んで最高の美の一つとして「なまめかしい―なんでもないような様子をしている」が重んじられていたことで、「日本の美意識」のひとつがこの時代に確立されていたことが知れる。
 また「うつくしい」という言葉は万葉集の時代には肉親的な親密な感情を表していた。美を表す言葉は、クハシ(細)、キヨラ(清)、ウツクシ(細小)、キレイ(清潔)と変遷し今に至っている。
こうしてみると日本人の美意識は、善なるもの豊かなものに対してよりも、清なるもの、潔なるもの、細かなものと同調する傾向が強いらしい。これに対して中国では「美」が「羊」が「大」なるもの、「麗」が大きな角を二本付けた立派な「鹿」の意味から転じたことを思うと、日中の美意識の違いが際立っているのが知れよう。

日本語は面白い、だけど軽々に操るものではない。

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