2013年8月19日月曜日

お盆に思うこと

  お盆になると妻がお祀りと接待をしてくれる。仏花はお盆用のちょっと豪華なもの―蓮の花とホウズキ、槇の葉が加えてある―でお水も大振りの水椀にたっぷり水をたたえ蓮の葉を浮かべて槇の葉が添えてある。中央には「薩摩芋、茄子、ホウズキ、胡瓜、桃」のお供えがある。毎朝「おけそくさん(小餅)」を左右に2個づつお供えして最近は日替わりで「お迎え団子、おはぎ、お送り団子」が別につくようになった。さしずめおけそくさんが主食で団子がスイーツなのか。昼食はそうめんが多い。夕食は仏さん用の小ぶりの朱の膳に同じ朱の小椀をー今日は揚げと葱のヌタ、長芋ニンジン牛蒡の煮物、梅干と赤蕪のお漬物、茄子と南瓜の味噌汁と白ご飯の5品を左右にお供えして接待する。これを4日間、黙々と続ける妻には才能があるのだろうが感心する。こうして今年も恙無く、お迎えしお送りすることができた。「ご苦労さん、ありがとう」。
 普段はお花を洗ってお水を替え線香を立てて朝参りをするだけだがそれでも毎日仏さんにお念仏を唱える。
 このように私の生活には仏さん―ご先祖は確たる位置を占めている。生きてはいらっしゃらないから普通の「存在」ではないが生者と死者という「隔たり」ほど遠くはない。加えてこれまで何人もの親族血族の死を身近に見送ってきたから「死―死者」は特別なことではない。まして死を「穢れ」などと感じたことはない。

 医術の進歩、保険商品の拡充とその広告を見ていて、そしてテレビに溢れる保健補助食品の広告を見ていると、「死」に対する『嫌悪感』『恐怖心』が異常に増幅されているように感じる。とにかく「死を遠ざけよう、関わらずにおこう、見ないでおこう」という気配を濃厚に感じる。
 で、それで、延命された生命は祝福されているのか、といえば全くそうでない。
 言い古されたことだが「死を考えることが生を充実させる」という根本に立ち返って、我々は「死」と真剣に向き合う必要があるのではないか。漢詩人を「天命に安んじ、悠々として詩酒を楽しみ、人を愛し自然を愛しつづけた」と評することが多いが、「天命に安んじ」が人間の「生への姿勢」のあるべき基本だとすれば、現代における「天命」とはどのようなものか。自己も含めて「生と死」を近いものにする工夫をしなければ、とご先祖を送って考えた。

 福永武彦の「告別」にこんな件がある。「アフリカの土人たちは仮面をつくった。彼等は常に恐れていたし、仮面はそれらの恐れを、生まれながらの本能的な恐れを、避けるための最も有効な武器だった。彼等は猛獣を恐れ、収穫をおびやかす自然の猛威を恐れ、他の種族を恐れ、病を恐れ、死を恐れた。しかし彼等が最も恐れたものは死だろう。死は形もなく襲って来るのだ。そこで彼等は死者のための仮面であるバコタをつくった。バコタをかぶる者は、形ある死、彼等野蛮人が眼に見ることの出来る死だった。/仮面は、それを自らかぶる者にとってと、それを見詰めている者にとってとでは、別個の意味があるに違いない。バコタをかぶる者は、その間に彼自らが死者であり祖先であることを意識する。彼はその時ひと度死ぬわけだ。また彼を見詰める者にとっては、この怪物は即ち最も確実な未来、――死を意味した。そして死を見るたびに、彼等はその絶対的な魔力が、自分たちに乗り移るのを感じたに違いない。従ってバコタを見ることは、或いは死者を祀る祭式を行うことは、彼等にとって生を充実させ、より健康に明日の生活を迎えるための、悦ばしい儀式をなしていた。彼等は笑い、踊った」。

 文明人の我々よりも彼ら野蛮人の方が豊かに感じられるのは、私の僻目(ひがめ)か。

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