2013年8月5日月曜日

老いとソクラテス

 奇跡が起こった!公園にゴミが無い!8年間ゴミ拾いをしているがこの広い公園にひとつのゴミも落ちていないなんて!夏休みになると中央の四阿(あずまや)で中学生が一晩中宴会をやってペットボトルや空き缶やたこ焼きの食べカスや菓子の包み紙やらタバコの吸殻やらが山ほど散らかしてあるのが当たり前だったのに、今朝はどこにもゴミが無い。
 昨年の夏休み前、学校に相談しよう、子供たちにごみ捨てをしないように指導して貰おう、公園が出来てから30年近く毎朝地域の大人たちがゴミを拾い続けてきたけれども、一向に子供たちにゴミ捨てという悪い習慣を改めようという気配が感じられない。ならば学校とも協力して子供たちに働きかけなければ子供たちは変わらない。そう考えて小学校と中学校の教頭先生に事情を話し協力を仰いだ。
 変化が表れ始めたのは今年の4月頃だった。ゴミが減ってゴミ拾いが週2~3回で済むようになった。7月になって急激に少なくなって、そして2013年8月2日、ついに公園からゴミが消えた!
  
 学校の教育力、未だ健在!このことが一番嬉しい。何かと批判の多い昨今だが、現場は生きている、そう思えることが嬉しい。先生頑張れ!!

 閑話休題。年をとって最も難しいことは「知らないことを知らない」ということではないかと最近思うようになった。70歳を過ぎて少しはキャリアがあって年齢が顔に出るようになると、若い人には何でも知っているように映るのかもしれない。あれこれ訊ねられるが無才無徳の老書生、知らないことの方が多い。以前は知っているつもりだったが最近になって自分の知識が間違っているのではないかと危ぶむ事柄も少なくない。そんな状態なのに訊ねられるとツイ知ったか振りであやふやな知識を広げてみたりいい加減に誤魔化してしまうことが何度もあった。しかし、もう、知らないことは知らないとハッキリ言おう、そう思うようになった。
 若いうちは何でも分かっていると思っていた。分かったつもりになっていたことも多かった。自信満々だったし勉強もした。しかし世の変遷は激しく価値観の変動も半端じゃなかった。ものには裏と表がある、見方を変えれば真逆になることも少なくない。分かったつもりでいたけれども本当は間違っていたり、その底に別の意味もあった、ということが結構多かった。情報化が進んで「物識り」が増えたけれども、モノを知っているだけではほとんど価値がないというのが若き日を振り返っての私の反省である。
 
 そういえば「ソクラテスの弁明(引用は「光文社古典新訳文庫」による)」のなかでソクラテスがこんなことを言っている。「私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で。」「あの恥ずべき無知、つまり、知らないものを知っていると思っている状態」と。   
弁明のかいもなくソクラテスは死刑に処されるのだが彼の死についての考え方は高齢時代の我々に「生命についての潔さ」を教えてくれると思うので引用しておこう。
 死を恐れるということは、皆さん、知恵がないのにあると思いこむことに他ならないからです。それは、知らないことについて知っていると思うことなのですから。死というものを誰一人知らないわけですし、死が人間にとってあらゆる善いことのうちで最大のものかもしれないのに、そうかどうかも知らないのですから。人々はかえって、最大の悪だとよく知っているつもりで恐れているのです。

 老いた代償に、道理が分かってくる側面もある。

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