2013年10月21日月曜日

アメリカ流グローバル化の限界

 ドヴォルザークのアメリカを描いた「新世界」は最もポピュラーなクラシックであるが19世紀、旧時代の因習―既得権者(教会など)を保護する規制でがんじがらめにされていた西欧社会から見れば米国はまさしく新世界だったろう。旧世界とのしがらみが一切ない新大陸で一から自らの手で築き上げる米国は「民主主義と資本主義の実験場」として格好の新天地だった。二つの世界大戦を経て繁栄を謳歌した米国は唯一の基軸国として世界の経済と文化をリードしてきた。それは民主主義と資本主義の最も成功した証(あか)しであり『米国流』はグローバル化の奔流となって21世紀の世界を席捲した。
 ところが今、その米国で民主主義が機能不全に陥っている。米政府の債務上限引き上げ問題をめぐって民主党共和党両党が国益を無視して党略優先の政争を繰り広げたために米国債務がデフォルトに陥る瀬戸際に追い込まれるに至ったのだが何とか来年の2月までは小康を保つことで事なきを得た。建国以来民主主義の優等生として機能してきた米国が一体どうしたのだろうか。

 2008年のリーマンショックを引き金とした金融危機で米国流資本主義は終焉した。一方で「世界の警察」として米国流民主主義を振りかざしてきた米国の世界戦略はベトナム、イラクと頓挫を重ね要の中東戦略も思うに任せない現状では債務問題も与ってもはやその影響力に昔日の面影はない。
我が国はデフレ脱却を目指して「アベノミクス」を安倍首相は展開しているが、その基本的志向は「米国流資本主義の後追い」という傾向が極めて強い。成長戦略のうち規制緩和は成長産業への資源移動を円滑に行う上で不可欠であるが労働力の流動化は再考を要するのではないか。
 労働力の流動化は「個人の自由な働き方を認め、企業が雇いやすくなるような制度改革」と言われているが実際は雇用を景気のショックアブソバーとして取り扱っている『米国流』の色彩が濃いものだ。即ち不景気になると雇用を減少させ人件費を削減することで企業経営を身軽にして景気対応を機敏に行うことで景気回復を早期に実現する制度になっている。
 ではその米国の労働市場の現実はどうなっているのか。リーマンショックで一気に悪化した雇用情勢は徐々に回復傾向(本年8月現在失業率7.3%)にあるがFRB(米連邦準備理事会)は雇用の長期目標を「失業率6%」としている。これに対して我国の失業率は直近で4%前後に収まっている。賃金はどうかといえば「We are the 99%」のスローガンに代表される「ウォール街を占拠せよ」に見られるように僅か1%の富裕層に富が集中する『極端な格差の拡大』が続いている。

 グローバル化が進む中で企業の生き残りは重要な問題である。しかしその先の国のあり方が「高い失業率と極端な格差、そして健康保険もない国」であるとしたら、我々の選択は正しいのだろうか。そもそも企業の存在価値はどこにあるのか。「有用な価値(商品)を創造し社会的厚生を高める」から企業は有用だ、という考え方がある一方「雇用の提供」に企業存在の最重要価値を認める人たちもいる。
 今企業の提供する商品に本質的価値はあるのだろうか。最も代表的な商品である自動車は環境問題が異常さを増す現在、Co2排出を考えれば「個的移動」から「集団移動」にシフトするべきであろう。テレビは4Kテレビに活路を見出そうとしているが今のコンテンツでは存在価値は限りなくゼロに近い。原発は廃棄物処理に根本的な解決策のない現状では価値判断以前の商品と断定して良い。
 企業の存在価値は「雇用の提供」にこそあるのではないか。

 「米国流民主主義と資本主義」をモデルとしたグローバル化はこれまでのように無条件に是認するのではなく、各国がその歴史と文化を包含した独自モデルを再構築する時期にさしかかっていると認識すべきである。

0 件のコメント:

コメントを投稿