2014年2月10日月曜日

医療費を考える一視点

 「現代のベートーヴェン」佐村河内守氏のゴーストライター事件は「メニュー偽装」と根は同じなのではないか。音楽そのものでなく情報で厚塗りされ感動を強制された『商品としてのタレント』を有難がる風潮もとうとうここまで来たか、の感がある。「盲目の名ピアニスト」やら英国の新人発掘番組で彗星のごとく現れた「地味な風貌からは想像もできない魅惑の美声」スーザン・ボイルまで『大衆の渇望』は止まるところがない。餃子の王将・社長殺人事件を「追悼餃子」で同情を装う風で茶化してしまう『大衆』は何を求めているのだろう。他人の評価でなく自分の判断で『選択』する賢さと逞しさが望まれる。

 閑却。高齢化による医療費の増大が問題視されている。当然各方面で専門的な論議が尽くされているが患者の立場からの意見は余りない。
 価格を無視して消費するのは「医療」くらいのものだ。今の診療は「出来高払い」で患者は治療費を事前に把握することができない。何故これを『おかしい』と思わないのだろう。
数年前頭痛がして総合病院で診察を受けたとき「MRIを撮ってみましょう」と医師から申出でを受け即座にお断りした。そんな大げさなものでないと思っていたからで、案の定頭痛は数日して治まった。多分風邪のせいだったのだろう。この場合は別として病院や医院で患者にはほとんど選択肢がない、いわば医師の『おまかせメニュー』なのだ。緊急な手術を要する場合を除いて治療方法は複数あるはずだ。今でも手術は相当丁寧な「インフォームド・コンセント」があり患者と立会人が納得したうえで手術に進むが、それと同様の医師と患者の納得と同意を求める手続きが通常の診療の場合もあっていいのではないか。とりわけ高齢者の「病い」は今ある診療科体系に複数関係する場合や診療科に馴染まないものもあるように思うから、複数の診療メニューを医師と患者で検討、納得する過程があっていい。勿論その場合メニュー毎の概算診療費も提示される必要があるのは言うまでもない。
レセプトの電子化と公開・共有を早急に行って、治療の標準化と価格表の作成が望まれる。
 
 医療は大雑把に「患者」と「病院・医院」と「医薬品・治療機器」メーカーで構成されている。患者は消費者(需要家)であるが病院・医院は「治療の供給者」であると同時に「医薬品」などの需要家でもある。医薬品・治療機器メーカーは「供給者」である。医療という市場におけるそれぞれの立場を考えると、患者は健康保険組合などの組織もあるが概して「弱い消費者」の立場にある。病院・医院は医療の提供者としては患者より「強い立場」だが医薬品や治療機器の需要家としてみれば大抵の場合「弱者」になる。
 医薬品産業の国内売上高は約9兆円、医療機器産業は約2兆円である。医薬品のメーカーは武田薬品の1.5兆円をトップに上位10社が3千億円以上の売上高が有り医療機器メーカーもテルモ、オリンパスの約4千億円を筆頭に上位10社は500億円以上の売上高を有している。これに比べて民間医療機関の年平均医業収益高は13.5億円に過ぎない。医療機器の多くは世界のトップ3(GE、フィップス、シーメンス)が牛耳っておりGEの売上高は凡そ18兆円にも上る。これでは勝負にならない。完全に価格交渉はメーカー主導であるから病院は「高い買い物」をさせられているに違いない。

 医療費高騰は医薬品、治療機器の需要家と供給者の規模の差からくる価格交渉力の優劣が齎す(病院・医院の)仕入れ価格の高止まりによる部分が相当大きく影響していると見て間違いなかろう。その高コスト体質にメスを入れず、それを前提として『官製価格体系』である「診療報酬」が役所で決められ今回もまた「初診料120円上乗せ」という形で消費者(一般市民)にシワ寄せされてしまった。


 我が国の行政は維新の「富国強兵・殖産興業」以来『生産者志向』である。医療市場を『顧客志向』で再設計しない限り「医療費高騰」は抑えられないであろう。

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