2014年5月12日月曜日

見えない人間の肖像

 ポール・オースターの「孤独の発明(新潮文庫)」にこんな文章がある。
 「私の心を乱したのは(略)父が何の足跡も残していかなかったということ、その事実が私を愕然とさせたのだ。(略)父は非在の人間だった。(p11)」「自分自身の表面にとどまることによってのみ人生に耐えられる男(略)自分の表面を与えるだけで済ませてしまう(p26)」「人々が見ていたのは、本当の父ではなく、父が捏造した人物、(略)父自身は見えないままだった。(p28)」この表現は深刻である。そして「父は(略)妻帯者でも離婚者でもなかった。(略)だが父がその役割に向いていないことは明らかだ。夫となり父となる才能が、父には全面的に欠如していた(p30)」とタタミカケられると愕然とせずにいられなかった。そして改めてこの章(同書は二章で構成されている)のタイトル「見えない人間の肖像」を見て暗然たる思いに陥った。
 
 70歳を超えて、子どもたちも独立し仕事も離れて妻とふたり暮らしになってみると「夫として、父として」妻や子どもたちに十分なことをしてきただろうか?と不安を感じる。それこそ「夫として、父としての才能」に全面的に欠けていたのではないかという忸怩たる思いに駆られる。妻も二人の子どもも健康でいてくれるのは何よりだが、幸せでいてくれるだろうか?単調なふたり暮らしの毎日に妻は満足しているだろうかと考えるとはなはだ心許ない。
 京都では「学区(小学校)」がハバを利かせていて「○○学区」の誰それと呼ばれることがあったし、ちょっと前までは「屋号」で「××屋」さんで通用した。又「通り名」や「住所」は身内でよく使われ「千本のおっちゃん」とか単に「上京の」で済まされることも普通であった。それがいつからか「△△ちゃんのお父さん」「▲▲君のお母さん」になりそれと同時に「○○銀行の」や「△△製作所の」と勤務先や「市役所の」とか「(学校の)先生の」誰さんと呼ばれることが多くなっていた。こうした変化を仕方がないと受け入れていたが今となっては頗る不都合なことになっている。△△ちゃんであった子どもたちは成人し独立したし○○銀行はとっくに辞めているからだ。そういう呼び名でいた『自分』は今や『非在のひと』になっている。
 70歳を超えた今こそ『アイデンティティー』が必要なのだろう。「われわれ(自分)は、どこから来たか?どこへ行くか?そしていま、どこにいるのか」を認識し伝えることのできる存在であるかどうかが問われている。
 
 父や夫を「経営者」に置き換えるとどうだろうか。
 「父は(略)世界一の大金持ちになることを望んでいた。(略)金とは父にとって、自分を不可触の存在にするための手段だった。(略)それは、自分が世界から影響されずに済むということでもあるのだ。いいかえれば、快楽ではなく、防御という意味における富。金のない子供時代を送り、ゆえに世界の気まぐれに翻弄されつづけてきた父にとって、富という概念は逃避という概念と同義になっていた。(略)父は幸福を買おうとしていたのではない。不幸の不在を買おうとしていたのだ。(略)父は金を使うことを欲しなかった。金をもつこと、金がそこにあるのを味わうことを欲した。つまり不老不死の霊薬としてではなく、解毒剤としての金。(p90)」「個々の物はその機能においてのみ理解され、その値段によって評価された。それ自体の個性をもつ、本来的に意味ある事物として見られることは絶対になかった。(略)金という観点からしか世界を見なければ、つきつめて考えるなら、世界をまったく見ないことになってしまうのだ(p92)」。
 人間の労働が「機能においてのみ理解され」て『人件費』として「その値段によって評価」された結果、経済生活以外にも多くの価値をもっている『人間社会』が深刻な『格差社会(世界)』に成り果て我国も世界も混沌たる状況に陥っている。
 
 「非在の人間」が増えれば増えるほど相手の見えない『不安な社会』になっていく。

0 件のコメント:

コメントを投稿