2014年8月11日月曜日

常識は疑わしい

 最近知ったのだが、今普通に行われている「神前結婚」の様式は大正天皇の結婚式を庶民風にアレンジしたものでまだ百年の歴史もないという。また神社に詣ったとき拝殿で行う二礼二拍手一礼(二拝二拍手一拝)の礼拝法は明治維新の「廃仏毀釈」に伴って、それまで一般に普及していた拍手を打った後両手を合わせて拝む形は仏式と紛らわしい、という理由で新たに定められたのがはじまりらしい。
 このふたつは、我々の常識ではいづれも相等以前―結婚式は少なくとも江戸時代から、礼拝法はそれこそ神代の時代から、はオーバーとしても平安時代頃からあったように思い込んでいたのではないか。考えてみれば「礼儀作法」として礼法の師範がもっともらしくご教示される内容には疑ってみれば随分可笑しいものも少なくない。例えば「水洗トイレの使い方」など水洗トイレ自体が一般化したのはここ30~50年位のことだから「古式礼法」に記述されているはずもなく師範が時流に合わせてそれらしく新考案したのに違いない。
 
 こうしたことを考えているとここ十数年の傾向として若い人たちがイヤに伝統様式や伝統行事を有り難がる風潮が嵩じているようで少々不安になってくる。バブルがはじけて不況になりデフレが長期化するなかで生まれ育った彼らは、出世や成長のモデルを失ったままで頼りな気な周りの大人たちを見ていて、自分なりに何か「しっかり根づいた物」を見出そうとして『伝統』に靡(なび)いたのかも知れない。もしそうならこれは危険な兆候といわねばなるまい。
 
 最近見たドラマに、60年安保や学園紛争の時代に生きた父をもつ子どもが「それで世の中は変わったのか!」と反抗するシーンがあった。これを見て思った。「そうじゃないだろう。若いということは既存の体制、既存の権威を疑い反抗するものではないのか。結果はどうあれ、それが世代の集団的意思に高まるかどうかは別にして、疑うことが特権ではないのか」と。
 知性というものを一っぺんも疑った事のないやうな弱い知性ではもう役に立たぬ。そこで彼(ソクラテス)は方向を転回し、凡そものを考える出発点も終点も「汝自身を知る」事にあると悟った(プラトンの「国家」より)。このプラトンの強烈なメッセージを若い人も、そしてそうでない人も知って欲しい、こんな混沌の時代なのだから。
 
 1575年末頃京都の基督教新会堂「昇天の聖母」を着工する。/フロイスが送った建設時の様子「ローマかリスボンへたった二人のアラビア人が来て、キリスト教の会堂の側に、モハメッド教のモスクを立てているのと同じだ」。/1576年の夏、オルガンチノはシャピエルの日本についた8月15日、聖母昇天祭の日を選んで、この会堂での最初のミサを献じた。この年の暮れ行われたクリスマスの祝いは新しい神父ジョアン・フランシスコを迎えて盛大に行われた。/キリシタンらは日本の中央の都に壮麗な会堂を持ち、屋根に勝利の旗・光栄ある徽章としての十字架を輝かせ、そこで公然と福音を説いている、――このことが日本全国の異教徒や領主たちに知れ渡るのである。それはあたかも主キリストの勝利を示すかのように感ぜられた。この気持ちは、日本の各地に勃興した英雄たちがいずれも京都をめざして動いていた時代、京都占領が覇権の成就として受け取られていた時代にあっては、実際に現実的な裏づけを持っていたのである。(略)かくして1577年中の京都地方の受洗者は一万一千に達したのである。(和辻哲郎著「鎖国」より)。
 この引用に見るように織豊時代から江戸時代の初めにかけてキリシタンは増加を続け最盛期には約60万人に達しているがこれは当時の総人口が2000万人前後だった事を考えると実に3%近かった事になる。しかもキリシタン大名の多さを思い合わせると少なからざる地方でキリシタンが一大勢力であったと想像できる。しかし私たちの学んだ(そして多分ほとんどの人たちの)日本史の教科書にはこうした記載は一切なかった。これは鎖国をした徳川幕府にとって都合の悪い『事実』であったから意識的に歴史から抹殺したのであろう、そしてその措置を以後の歴史家たちも踏襲してきたからに違いない。
 
 『歴史』として教えられ、常識と思い込んでいることさえも疑わしいと思いを致さなければならない時代に我々はある。

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