2014年8月18日月曜日

「不老不死」の生き方

 とうとう男性の平均寿命も80歳を超えた(厳密には80.21歳)。女性は86.61歳で世界最長寿の地位を保っている。一方健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間)は男性が70.42歳女性が73.62歳で平均寿命との差がそれぞれ10年と13年ほどある。単純に考えればこの10年なり13年間が医療機関を煩わすことになり膨張する高齢者医療費がますます増大する懸念が強まる。そのため厚労省などは予防事業と現役からの健康づくりを積極的に進めていこうとしているがこうした対策によって医療費の削減効果があるかというとそうでもないらしい。専門家によるとほとんど効果は確認はされていないという。 
 そこで問題になるのは「終末期医療費」だ。死亡前1ヶ月にかかった医療費を終末期医療費とすると平成12年度では平均112万円(/人)で約9000億円に相当する。終末期医療費が全老人医療費に占める割合は20%といわれており国民人が一生に使う医療費の約半分が死の直前2ヶ月に使われるという報告るように延命療は医療の世界ではドル箱といわれている。75歳以上の高齢者医療費の総額は2010年度予算ベースで12.8兆円、25年度には2倍程度に膨らむと試算されている。また医療費の観点から死亡場所を考えると病院などの医療機関は延命治療が十全に行えることから在宅に比べて格段に高額になる傾向が見られるが実際の死亡場所は2009年で自宅は僅かに12%に過ぎない(医療機関は81%)。
 結局健康寿命が延びても医療機関で死を迎えるケースが減少しない限り終末期医療費が先送りされるだけで高齢者医療費のトータルは殆んど変わりないだろうと想像できる。在宅か介護機関で終末期を迎える比率を高める方向に誘導していくことが高齢者医療費を削減する最も手短かな方法になる。
 
 長寿化や高齢者の死生に関わる問題を「医療費」という味気無い捉え方でなく「人間の生き方」として考えてみよう。大前提は80歳とか85歳というような超長寿は人類にとって未経験だということだ。1950年頃の西欧諸国の平均寿命は65歳から69歳で日本は61歳であった。それ以前はもっと短命だったから長寿化はここ5、60年で実現された特異な現象で、今高齢者医療の対象となっている種々の医療現象は「長寿が惹き起こした疾病」とみることもでき従来の『西洋医学の治療システム』の対象となっていた疾病と同じ系列につながるものかどうかは一概に判断し難いと言えなくもない。従って「健常から疾患そして死へ」という「生の捉え方」ではなく『非健常未疾患』の期間が相当あることを前提とした新しい『生き老い方』を考える必要がある。人間の身体器官は60歳が限度という見方がある位だから70年も75年も生きておれば経年劣化が起こって当然であろうし、最近の研究でガンは老化現象の一種であるという見方が有力になっているのもその表れだろう。わが国のガン治療はガンそのものをどう治療するか寿命をどう延長するか、という観点で語られることが多かったが、これからはガンを抱える高齢者の生活維持という視点からとらえ直そうという取組みも始まっている
 高齢者医療を従来の医療の延長線上に考えるのではなく「医療と介護」「西洋医学と東洋医学」を統合した範疇の分野を創設し、「治療―寿命の延長」と「高齢患者のQOL(生活の質)重視の治療―介護」という選択肢を提供するような医療のあり方が模索されてもいいと思う。具体的には、手術をすれば当面のガンは治療できるが体力を考慮すれば元の生活に復帰できる可能性は低く寝たきりになる覚悟がいるような場合、手術はせずに痛みを和らげ病状の進行を遅らす「QOLの維持を最優先」に考えた介護主体の『ケア・プラン』も提示されて患者がそれを選択する、ということになるかもしれない。
 
 しかしこうなるとこれはもう、その人の『死生観』の問題になってくる。しかし「超高齢社会」の高齢者は今まさにこうした問題と真正面から向き合うべき時期に至っているのだと思う。「終活」とか「エンディングノート」であるとかマスコミの問題の本質からずれた浮ついた煽動に操られず、また医療費と年金の膨張の元凶としてしか高齢者を見られない「経済至上主義」の若輩を後目に、人類が「いにしえ」から究極の問題として追求してきた「哲学的主題」に「おとな」として矜持を持って『臨む』。そんな姿勢を若い人たちに高齢者が示さなければこの歴史的変革期の困難な問題に回答を導くことは、誰にもできなのだから。
 
 「不老不死」は人類の究極の願望であった。いまそれが『半ば実現』されつつある。その結論は『そこにいる老人』が示すのが当然であろう。
 「生きること」はむつかしい。しかし「死ぬこと」もそう容易(たやす)いことではない。

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