2014年8月4日月曜日

菅ちゃん英語とLINE

 MBS毎日放送「ちちんぷいぷい」に「道案内しよう」というコーナーがある。お笑いコンビ・ロザンのふたりが大阪駅前で道に迷っている人を道案内するという構成になっているのだがロザンのひとり菅ちゃんが何ともキテレツなブロークン・イングリッシュを使う様が滑稽で人気になっている。菅ちゃんは英語が苦手でボキャブラリー(語彙)が貧弱なことは百も承知なのだが外人さんに懸命に話しかけようとする。適当な単語が思い浮かばず知っている語彙を組み合わせ、それも伝わらないと身振り手振りでそれを補い、時には日本語に感情を込めて相手に訴える。こうした菅ちゃんの熱意が伝わるのか相手は想像力を働かて何とか意味を聞き取ろうとして、結局会話は成立するのだがそこに至る過程の菅ちゃんの奮闘振り好感が持てて楽しいコーナーになっている。相方のクイズ王・宇治原の控え目なからみ振りも良い。
 
 フェイスブックやLINEなどのSNSは「菅ちゃん英語」の対極にある。言葉の論理的側面に信頼を置いて「短文による言葉の遣り取り」で意思の疎通を図ろうとしている伝えようとする内容が「短文」でも間違いなく伝わると信じている。ところがボキャブラリーが乏しく尚且つ短文だから誤解の生ずる危険性が非常に高く操作上の規制や制限もあって、SNSを介した揉め事や犯罪が少なくない。
 
 言葉には「論理的側面」と「心理的側面」があるが最近の傾向は「論理面偏重」になっている。例えば私が兄と出かけある会合で「お兄様はどちらですか」と問いかけられた場合を想定してみよう。「あれが兄です」と私が答えたとしてその時いかにも苦々し気に云えば、相手はこの兄弟は余り仲が良くないのだなと感じるだろうし、反対に、誇らしげに親しみを込めて言えば、弟さんはお兄さんを尊敬して好きなんだと思うに違いない。「あれが兄です」だけではこうした微妙なニュアンスは伝わらない。
 そもそも言葉自体が不完全なものである。恋したとき、その感情を相手に伝えようとしてどうしても上手くいかなかった「もどかしさ」は誰しも経験のあるところだろう。またメール言葉の選択を誤ってとんでもない誤解を招いたことも何度かあるのではないか。カタカナ英語の氾濫している現在、例えば「コンソーシアム」などという言葉は話し手のレベルの差でその包摂している概念にかなり隔たりがでてくることもあるだろう。いずれにしても「言葉」というものは相等訓練して制御する能力を身につけないと遣(使)いこなすことが難しいものなの
 
 だから最近盛んに叫ばれている英語教育の早期化には危うさを禁じ得ない。そもそも言葉の最も重要な働きは「母国語で考えをまとめる」ことにある。近頃見るテレビ広告のなかに、0歳児に英語を覚えさせようとするものがあるがこの広告の商品で育てられた子どもは「母国語」は身につけることはできるのだろうか。もし「母国語」が獲得できなくても『思索』は可能なのだろうか。思索など普通の生活を営むには不要だという向きもあるかも知れないが、言葉を習得する過程で無意識にしている論理操作によって「思索」は行われている。そこに言葉を習得することの不思議さがあるのであって、どうも最近は言葉のテクニカルな側面ばかりが強調されているようで不安である。
 
 テレビタレントには「恐怖の瞬間」があるという。無意味な―意図せざる「無言」の時間をそういうらしいが数秒つづくと「放送事故」となる危険性を感じるという。しかしこれだけ「言葉が氾濫」し、しかも年々早口になってくると「無言」が貴重に思えてくる。
 ふたりで居て、スマホも携帯もなしで、無言で過ごしても何の不安も抱かないで温もりのある時間を持てるような、そんな成熟した「おとな」ありたい。

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