2014年7月28日月曜日

福沢諭吉と内村鑑三

 思えば実に維新の青年政治家輩は乱暴な事を為したのである。基督教抜きの西洋文明を日本に輸入して、毒消し無しの毒物を日本に輸入したのである。斯んな人達を維新の功労者として崇めし日本国民は後に至りて其不明を恥ずる事であろう(新保祐司著「内村鑑三」より、以下の引用も内村のものは全てこの書によっている)。
 斯く怒っているのは日本近代化の「精神世界の支柱」であった基督者・宗教家『内村鑑三(1861~1930)』である。同じように明治維新以来の「物質世界の支柱」であった福沢諭吉も現在の我国の経済社会を見れば怒りを通り越してあきれ果てているに違いない。
 
 諭吉の根本的な考え方は「学問のすゝめ」に次のように語られている。
 『一身独立して一国独立する事』。ひとの貧富強弱は皆に等しく分配されているのではない。それは個人の勉強努力に比例しているのであって、努力をしなければ富める者もやがて貧弱となるの例は古今に少なくない。我が日本人もこれからは勉強に勤しみ精神を確かなものとして「一身の独立を謀り」その独立した個人を基礎として富国に努めれば一国の独立は必ず達成できるであろう(現代語訳は筆者)。
 「100年に一度の金融危機」に遭遇したとき世界に冠たる我国のメガバンクは数兆円の金融支援を政府にあおいだ。デフレにあえぎ不況から脱却できない産業界は3600億円近いエコカー補助金や3000億円弱のエコポイントという補助金、租税特別減税という各種の補助金を政府から支援されなければグローバル経済という世界的潮流に抗しえないでいる。岩盤規制に「保護」されて新規参入を排除し自由競争に立ち向かうべき新技術の開発を怠ってヌクヌクと現状に満足している既得権益層の姿を見れば諭吉はどんなに嘆く事であろう。
 
 内村は我国の明治以来の「近代化」を次のように鋭く批判している。
 日本の「近代」とは、人間の基軸をいわば「数え年八つの娘」に置いた時代であったのではなかったろうか。(略)この決定的な誤りが、「近代」の誤りではなかったであろうか。(略)もはや現代においては人間そのものが、人間の中の「八つの娘」的部分と等しくなってしまいつつあるように思われるが、そしていったん、人間の基軸がこのようにずれてしまうと、とどまるところを知らず人間は限りなく幼稚化していき、それは風俗面において最もどぎつく現れてくることになるのである。(ここでいわれている「数え年八つの娘」というのは晩年彼の元を去った高弟の塚本虎二の娘を指し、塚本は娘のために基督教の教説をやさしく翻訳し直して理解させた経験から、誰にでも分かるような聖書に改めるべきであると内村を批判した―筆者注)。
 昨今の社会情勢に見る政治、経済のあり方、また頻発する犯罪や政治家の不祥事はほとんど内村の言う「数え年八つの娘」に基軸を置いた幼稚化の「なせる業」以外の何ものでもあるまい。それでありながらマスコミはその責を「格差や貧困という社会環境、それを齎した政治や社会」に求めたがる。
 「現代に必要なのは、絶望を絶望することである。何故なら、絶望とはぎりぎりの主体性であるからである。絶望を避け、絶望を人間とその社会から追い出すことに専念してきた現代というものは、『平康(やす)からざるにやすしやすし』という時代の大勢の中にあってもはや、変な言い方だが、正しく絶望することを忘れてしまったのである。絶望を、正しく絶望すること、このことにしか救いへの端緒は見つからないであろう」。というような内村の厳しさは、もはや社会のどこを探しても見出すことのできない『淀んだ』、『緩んだ』社会に成り果てている。
 IT技術の発達は「情報過多」を招き情報の氾濫を引き起こしているが「(新聞、雑誌、テレビ・ラジオ、インターネット、SNSなどー筆者注)夥しく生産されつづけているという現象は何とも空しいものである。こういう現象によって現代人は実に様々なことを知っているが(恐らく情報として知っているが)そのうち、自ら知ろうと欲して、その生き生きとした心の動きを伴って知ったものは果たしてどれほどあるのだろうか」。
 
 「国に、政府に頼らない」という独立自存の精神を磨き、「数え年八つの娘」には分からないものだと突き放し宗教や学問、技術に『尊崇の念』を抱かせるような社会に生まれ変わらなければ諭吉や鑑三に申し訳が立たない。

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