2015年1月10日土曜日

七日正月 

 
 七草粥をすすりながら今年の正月を思い返すと中国人の「福袋」の大量買いが印象的であった。いや中国人に限らず韓国やアジアの人たち、オーストラリアや米欧人も挙って福袋を買いこんでいた。そして異口同音に「中身は分からないけど日本製品は安全だから、日本人を信用しているから」と『無邪気に』楽しんでいるのを見て、胸がジンとした。そして、こんなに「信頼」して貰っていいのだろうかと少々不安に感じると同時に彼ら、世界中の人たちの我が日本に対する『尊敬』を有り難く感謝せずにはおられなかった。
 そういえば外国人がよくこんなことも言っている、「財布を落としても必ず手元に戻ってくる、それも中身の現金もパスポートも。信じられない!スバラシイ!」と。我々にとって当然のことがこんなに驚くことなのかと不思議に感じるが、一方でこうした習慣がこのまま続いていくだろうかと不安も過(よ)ぎる。
 
 「おとす」ということは、人間のものでなくなってしまうということなのです。つまり「落とした」ものはその人から「無縁」になってしまい、神仏のもの、「無主物」になってしまうとも言えるでしょう。ですから、今でも落としたものを見つけたからといって勝手に自分のものにしてはいけないので、ある程度の時間がたたないと、自分のものにすることはできないのですが、そこに「落としもの」の性格があらわれています。
 これは網野義彦著「『忘れられた日本人』を読む」からの引用です。(「忘れられた日本人」というのは宮本常一の民俗学の代表作です)。これから想像されるように今でもわれわれの深層心理には古の未分化な自然信仰的な『畏怖心』が息づいているのです。しかし、いつまでもこうした状態が続くという保証はどこにもない、むしろ徐々に危うい状況が迫ってきている。ここで何か「歯止め」をかけないと、あっと言う間に「世界標準」に堕落してしまうに違いない。(だからと言ってスグに「教科・道徳」を持ち出してくる浅薄な昨今の右傾思想には大きな危うさが潜んでいることに我々はもう気づいている)。
 
 一方で残念な結果も報道された。理研と小保方晴子氏が発見したとされた「STAP細胞」が、根拠となる論文が捏造されたものとして「不正確定」し、その存在が完全に否定されてしまったのだ。あの、昨年早々一世風靡した輝かしい騒動は一体なんだったのだろうか? 理研という我国最高の科学機関に何があったのだろうか?
 
 中谷宇吉郎が師・寺田寅彦(ふたりとも理研の出身である)のことばを借りてこんなことを言っている(「中谷宇吉郎集第一巻『先生を周る話』」岩波書店より)。実験家として立って行くには、決して億劫がってはいかぬ。どんなつまらぬ事でもやってみなければ分からぬものだから。まずやってみることが一番大切なんだ。頭の良い人は実験が出来ぬというのもそのことで、あまり頭の良い人は何でも直ぐ分かってしまったような気がするのでいかんのだ。どんな事でもやってみなければ決して分かるものじゃない。何といっても相手は自然なんだから。
 理研というのはそれこそ日本で最も頭の良い人の集まりである。「STAP細胞」という言わば「無から有を」生むような画期的な発見を発表するなら、愚直に億劫がらずに実験を繰り返し蓄積して、理研全体が納得し確信する過程が必須であったはずなのに、どこで「分かってしまったような気」になったのだろうか。
 宇吉郎はこんなことも言っている。「オリジナリティというものは、何もないところから出るものじゃなくて、出来るだけ沢山の人のやったことを利用して初めて出せるものだからね(前掲書より)」。「STAP細胞」のような前代未聞の発見はそれこそ「出来るだけ沢山の人のやったことを利用」する心構えが必要ではなかったろうか。それを一足飛びに「オリジナリティー」を求めすぎたのではなかろうか。「科学者というものは、宜しくrationalistすなわち合理的に物を考える人にならなければいけない。(略)ラサフォードが自分はアマチュアである、決してprofessional scientistではないという回答をしていたが、大いにわが意を得たりと思ったね。(略)いつまでもアマチュアの気持ちを失わずに、楽しみながら、終始目を開いて仕事をしなければいけない。それがすなわちrationalistなんだよ(前掲書より)」。細分化し専門化が極端になった最近の科学界は隣接する領域でさえも口出しできない『傲慢さ』が横溢しているのではないか。折角の世界に誇る専門家集団が組織的欠陥によって集合としての『集積』を生かせないのはまことに残念なことである。
 
 科学というものは、整理された常識なのである(前掲書より)。
(2015.1.12)
(科学社会1934文字)(476/266 市村 清英)

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