2015年2月8日日曜日

 後藤さんの遺したもの

 国際ジャーナリスト後藤健二氏がイスラム過激派組織「イスラム国」に虐殺された。記者団に答える我国首相は悔しさに涙を滲ませなが「この罪を償わせる…」と決意を述べた。しかし『償い』とは何なのだろうか。そのために我国は何を為すというのか。そもそも中東で―世界で「ニュートラル」と捉えられ、ある種の尊敬と憧れをもって迎えられていた我国が「テロの標的」に転じたのは何故をもってなのだろうか。
 後藤さんの報道を通じて我々が目にしたものは、悲惨という言葉の表現さえ憚るような「貧困・不衛生・破壊」の現場であった。
 
 世界は現在195ケ国、70億人の人口を擁している。このうち「豊かな国(1人当りGDPが2万ドル以上)」は41ケ国に過ぎず1日1.24米ドル以下で暮らしている「最貧国」の人口は14億人(2005年)にも及んでいる。一方世界の軍事費(2011年)は1兆6245億ドルに達しそのうち2億ドル以上の軍事費を支出している国(それなりの軍事力を保有しているとみられる国)は14ケ国に限られ1億ドル以上でみても20ケ国に過ぎない。ストックホルム国際平和研究所の軍事統計には135ケ国が掲載されているが問題は下位国でもGDP(国内総生産)の1~2%を軍事費に支出していることであり紛争地域の国―例えば東ティモール4.9%アルメニア4.2%バーレーン3.4%―は国力に比して過大な軍事負担を強いられている(ちなみに米国4.7%中国2.1%ロシア3.9%インド2.7%ドイツ1.4%日本1.0%)。
 ということは僅か14ケ国か20ケ国の軍事力のバランスの上に世界の平和が保たれているのであり、その中で50ケ国に満たない「豊かな国」が繁栄を享受し150ケ国が黙して貧しさに耐えているのが現在の世界の構図といえる。
 
 日本は戦後「不戦」を世界に宣言し軍事費を最低限に制御することで経済再生に専心できた結果「奇跡の復興」を成し遂げた。遅れて独立した国、遅れて発展を目指した国々―発展途上国にとって「軍事費」は「不必要な支出」であって欲しい、乏しい資源と資金を経済発展に振り向けたいと願っているに違いない。ところがそれらの国は、先進国の植民地であった国が多く資源の収奪と宗主国資本の蹂躙にさらされてきたから、独立しても「自立」できるだけの「蓄積」がなく、我国のように与えられた「民主主義」を消化するだけの「教育レベル」にも達していなかったから、「国民国家」として成立するには相当な困難を強いられた。加えて多くの国は、「民族」も「言語」も「宗教」も無視されて戦勝国の都合で「線引きされた国境」で区切られたから、「アイデンティティ」を共有し統合された「国家」として発展・成長するのは苦難を極めた。
 「発展途上国」にとって「不戦」と「経済発展」を鮮明に「旗幟」掲げた日本は『モデル』であり『憧憬』であったに違いない。
 安倍首相や彼と価値観を共有する人たちは「歴史認識」や「集団的自衛権」の行使容認についてそれなりの「論理」があるに違いない。それを信じて国の内外に「発信」してきたのだから、国際世論から「右翼勢力」と見られ選挙に大勝すれば「右傾化政策いよいよ本格化」と評価されることは心外かもしれない。しかしそれが「世界の目」であり発展途上国の「評価」なのである。
 
 我国は中国に抜かれたとはいえ世界3位の経済大国であり英国の約2倍のGDPを誇っている。しかし人口減少期を迎え、今の国力を維持することは不可能に近く国の進路をどの方向に舵を切るかの極めて困難なな時点に立っている。G7でありG20の地位を意識して現状維持に拘泥するのもひとつの選択肢である。 しかし世界200ヶ国のうち3/4の国は貧しく開発の遅れた国であり14億人は最貧国に暮らしている。これ等の国は最低でも「戦争」に巻き込まれないことを願い、貧困と病苦から脱却したいと願っているに違いない。経済援助は欲しいけれども「ひも付き」でないものを―援助国の支配下に入ることは望んでいない。
 近隣の「強国」や武力を持った「危険な国」「反日国」に『ナメられる』のを『屈辱』と感じて、或いは不条理な「撤退」を強要されると『懼れ』て、これまで築いてきた『弱い国の好意』を捨て去ることで我国の世界における地位はどれ程向上するというのか。
 
「寛容(トレランス)は自ら守るために不寛容(アントレランス)に対して不寛容になるべきか」(仏文学者渡辺一夫)。 この老仏文学者の言葉が今ほど重く感じられる時はない。

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