2015年4月18日土曜日

介護と残虐性

 先日の新聞(4月11日)にこんな記事が載っていた。
 「身体拘束『推定6万人』、介護施設入所者の2.3%」。これは厚労省の事業としてNPO法人全国抑制廃止研究班が今年1~2月に実施した調査で分かったもので「拘束を受けている人は全国の介護施設などに入所している高齢者の約6万人で全体の2.3%に当り、要介護度の高い人が入る施設では1割を超えている」と伝えている。調査は全国の特養や介護老人保健施設(老健)介護療養型医療施設など7種類計約3万5千施設が対象で入所者数は約260万人とみられている(ちなみに全国の病院は800超入院ベッド数は約160万である)。認知症の症状や治療への支障などを理由に拘束されているが、介護現場の人手不足が大きな原因になっており「拘束を廃止したいが、現状では困難」との答えが多かった。研究班は「拘束は認知症の悪化や身体機能の低下につながり、必要性の乏しい拘束は虐待と同じ」と指摘している。
 
 この記事を読んで30年以上前の記憶がまざまざと蘇ってきた。
 トイレに行くと男子用便器の前にズボンが半分ズリ落ちた状態で父が立ち尽くしていた。近づくと異臭が鼻を突いた。呆然として父の背後にしゃがみこむと脱糞しているのが分かった。ズボンを下げると下痢気味の軟便が下半身を汚していた。「どないしたんや、どないしたんや」と訳も分からずズボンを脱がし下着を剥ぎ取って清拭しているうちに涙が滂沱として流れ落ちた。「お父はん、なんでや」バケツに水を汲んで下半身を洗い流しながら気がつくと打擲を繰返していた。もし妻が帰ってこなかったら虐待に嵩じていたに違いない。
 80歳近くになっていた父は気がつかないうちに認知症になっていたのだろうか、これを境に認知症が亢進し時を経ずして寝たきりになった。170センチの大柄な身体をしていた父はその当時でも60キロはあったのではないか。褥瘡(床ずれ)を起こさせない様に30分に一度は体交(体位変換)しなければならなかった妻は大変だったと思う。訪問介護の医師や看護師さんが「奥さん、ようやってあげてはりますね」と感心してくれていたことからも妻の献身ぶりに対しては感謝以外にない。それが父の亡くなる前日、突然背中一面が痛々しく赤く床ずれしたのだ。どうして、と嘆く妻を宥めながら夜を徹して看病したが翌朝父は逝った。
 
 拘束や虐待を「尊い生を蔑ろにする」行為と非難するが現場の感覚はそんなものではないだろう。脱糞脱尿する老人は醜悪である。目脂、洟をたらしよだれを流して焦点の定まらない眼をおよがせる老いた顔は愚昧である。その老人が不抵抗で弱者であれば残虐さがよびさまされて虐待することも稀ではあるまい。人間の本性の一部にこのような忌避すべき性情が潜んでいることに眼を瞑るべきではない。そうではなくてそれを当然のこととして、醜悪で愚昧な老いさらばえた姿を見たときに覚醒する残虐性を制御する技術を訓練によって獲得するようなプログラムを介護の課程に組み込むことが『必須』なのである。
 己の父母であっても時に暴力を振るうことがあるのだから他人が「介護」することは単なる技術や安っぽい「ヒューマニズム」で達成できる「技能」ではない。介護技術とともに人間性の底に存在する「残虐性」を馴致する能力を習得することが『介護職』には欠かせないものと認識すべきなのだ。
 まして生活習慣病が慢性化した同じ老人を対象としながら「医療」従事者とは格段の劣悪な雇用環境を強いられている「介護」従事者であればその不遇に対する『憤り』と欲求不満が相乗化すれば「残虐性」はいつ暴発してもおかしくない。そこまで考えて『介護』という職業をつくる必要があるのだ。
 
 あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀を以て支払はるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。然るに教育に於いて為される最善の仕事―則ち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。(新渡戸稲造「武士道」より)。
 
 表層的な技術だけでなく人間性に潜む残虐性を制御する訓練を施すことによって『清貧なる職業意識』が実現されるのである。
 

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