2015年6月20日土曜日

学んで老いに到る

 四月に連載十年を迎え、今回連載五百回を数えることができた。記念になるコラムを書くに当たってテーマに何を据えようかと考えたが連載を続けられた最大の原動力は『読書』であったから、七十歳を超えた「一老書生の読書論」を展開してみようと思う。
 
 最近こんな「読書論」に出会った。「(古井さんは)日本の優秀な外国文学研究の伝統の中で勉強されたので、本の読み方が玄人になっている。とくに詩の読み方がはっきり違っている」。これは大江健三郎と古井由吉の対談集『文学の淵を渡る(新潮社)』にある大江の言葉だが、「読書の玄人」とはどんな意味だろうか。実はここ数年、私自身この問題について思案を重ねていたのでまさに当を得た言葉に出合ったことになる。古井はドイツ文学者を経て小説家に転進した人であり、とりわけ十九世紀オーストリアの詩人、ライナー・マリア・リルケに造詣が深い。ドイツ文学者がドイツ文学を読むのと一般人が読むのとの違いはどこにあるのだろう。それについて古井がこんなことを言っている。まず原文をニュートラルにする。ニュートラルにすると、おのずから解体が起こる。そのときに、ドイツ語の時間に即した解体もあるみたいですが、それを日本語にすぐ組み立てられるとはとても思えない。けれども、原文から離れてもいいから、解体した素材で日本語を組み立てていく。そのとき、僕が自由にできる日本語ではだめなんです。/自分のものでない日本語、古人たちの日本語をかなり援用して、何とか組み立てていく。似ても似つかぬものにしているのではないか、そういうおそれに途中ずっと責められて、終ったときもそういう気持ちでした。/ドイツ人がこれをまた直訳して読んだら、似ても似つかぬものと思うでしょうけれども、しかし訳し終えてもう一遍読むと、ムージルのスタイルになっている」。この文の肝は『ニュートラル』という言葉だろう。ドイツ語の「縛り」やドイツ特有の文化的背景を消去するということなのだろうか。私の経験で言えば、書かれている内容を自分の理解できる価値観やぴったり当てはまる言葉に置き換えるという過程がこれに近いのかも知れない。
 
 そもそも私が「玄人の読み方」という考えに至ったのは、このコラムを書き始める前の五十年近い読書歴とコラムを書き出してからの「読み方」が明かに異なっていたからだ。簡単にいえば、それまでは「読みっぱなし」だった。とにかく読んで内容を理解する、それで終りという読み方だった。勿論読書ノートをとることも無かったし、だから書中に気に入った言葉や表現があっても「書き留める」こともしなかった。コラムを書くようになって読書ノートをつけるようになり、優れた言葉や思いもつかない表現はもらさず書き記し、内容を「自分の言葉」でまとめる作業もした。
 もうひとつ「本の選択」に変化がでた。いわゆる「濫読」からはすっぱりと足を洗い、系統立てて読むようになった。例えば先の『文学の淵を渡る』を読めば文中に出てくる「牧野信一、葛西善造、嘉村磯多、岡本かの子」などを読むということであり、学術書などでは参考文献にはなるたけ目を通すということである。読んでいる、あるいは思索しているテーマに関係の有る書評が目に付けばそれを読むことも多くなった。
 私にとって大江健三郎は「本読みの玄人」そのものなのだがそんな彼にとっても古井由吉は「玄人中の玄人」になるのだろう。大江を別にすれば私の尊敬する「本読みの玄人」は丸谷才一と池澤夏樹でありとにかくこのふたりには敬服している。彼らとの出会いに記念碑的な感激を受け、以降の読書に大きな影響を受けた。
 経験的に言えば「系統立てた本の選択」と「(コラムを書く=)アウト・プットする」ということが「読書の技術」であり、読書を通じて「自分の思索を深めていく」ことに繋がらなければ「玄人」でないと思う。
 
 振り返ってみると高学歴化と情報量の増大は「知識量の拡大」を一般化した。しかし「知識の獲得」で止まっている読者が多い。「自分の頭で考え」「批判精神」で知識を「淘汰」できない本好きが溢れておりテレビのコメンテーターなどはほとんどこの類である。これをショーペンハウアーは「本を読むことは、自分の頭ではなく、他人の頭で考えることだ。(略)他人の考えをぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ。(略)良識や正しい判断、場をわきまえた実際的行動の点で、学のない多くの人のほうがすぐれている。学のない人は、経験や会話、わずかな読書によって外から得たささやかな知識を、自分の考えの支配下において吸収する。」と言っている。また彼は「思想家は(略)たくさん読まねばならないが、(略)自分の思想体系に同化させ、有機的に関連ずけた全体を、ますます増大する壮大な洞察の支配下におくことができる。」とも書き記している。
 知識の吸収に汲々として自分の頭で考えない「本好き」は「本読みの素人」だから素人の氾濫する現在は「好い本」が売れない状況になってしまっている。
 
 読書は「知読」と「楽読」の二面性があるかもしれない。娯楽としての読書と知識を吸収するための読書と言い換えてもいい。しかし本も「消費財」と考えれば「内なる必要」を満たす書籍と「つくられた欲望」に駆られた本があることになるから後者は望ましい本と言えない。そんなことに気づいたここ十年ほど、ベストセラーの類には興味が湧かなくなっている。
 
 七十歳を超えて頭のしっかりしている「健康寿命」が残り少ないと感じたとき余分なものはもう読むまいと決めた。読まなければならない本、読んだ方が良い書籍なのにその存在すら知らなかった本がまだまだ多く残されている。だから読んだ感動や驚きがその場限りでなく長く続くような本を選択しなければならない。これまで積み重ねてきた「知識」を取捨選択して「自分なりの体系づけ」できる読書をしよう、そう考えて本を読んでいる。例えば「アメリカ式経済運営」は第二次世界大戦で国土を壊滅されなかった「アドバンテージ」を除去すればそんなに優れたシステムでは無いから「雇用の流動化」や「市場競争万能」という考え方を鵜呑みにしないで「日本流」にアレンジする工夫を凝らそう、とか、集団的自衛権の行使は同盟国への信頼が必須要件だから、ベトナム戦争やイラク侵攻を行い自国の利益のために「基軸通貨」権を乱用したアメリカは「信用できる同盟国」ではない、といったような価値判断を読書を通じてできるようになりたい。
 そして今望む理想型の読書は「書かれなかった歴史」を見抜く力を身につけられるような『読書』である。
 
 「学到老(学んで老いに到る)」。不世出の京劇役者・蓋叫天(がいきょうてん)の座右銘である。

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