2015年6月6日土曜日

晩年について

  古井由吉著「詩への小路」にある『晩年の詩』を読んだ。十九世紀末のドイツ詩人の数篇だ「ちょっと違うな」と感じた。それは彼らが私より「年若」なこともあるがそれよりも、抑制は効いているが「死に対する悲痛感」が邪魔したのだと思う。彼らの時代はせいぜい五十年の寿命だったから六十歳前後にもなればまぎれもなく「晩年」で死を身近に感じて当然なのだが、「ところが七十代になった今は、どう自分の中を探ってみても、死の恐ろしさについて考えていないんです。もちろん死ぬ間際になったら恐ろしくて泣き叫ぶかもしれませんよ。しかし今は、死の恐ろしさは私の主題じゃない。それよりも、死について考えることができる、ということが面白いという気持ちになっている」という大江健三郎の感覚(「文学の淵を渡る」新潮社)が今の私の正直な「晩年観」になっているから彼我の間には相当なズレがあるからだろう。
 
 終戦直後、今から七十年前には五十歳だった平均寿命があれよあれよという間に八十才を超えてしまった。生活が豊かになったことと医学の進歩の結果だが、果たしてこれは喜ばしいことなのか、世界に誇れることなのだろうかと少々自信がグラツイている。時折テレビに映し出される「老人ホーム」は多くの老人が車椅子に座りテーブルを前にして「手なぐさみ」にふけるか、皆とご一緒に合唱や体操の指導を受けている。食事は自活している人もいるが介添えを受けている人も少なくない。病院のベッドに寝かしつけられたり在宅で寝たきりで家族やヘルパーさんに介護されているケースも多い。後期高齢者で医療を施されていない人は稀有であろうし重度の症状で辛うじて生命を維持している年寄りは相当多い。
 「(自然)寿命」を超えて「医療と介護」によって「無理矢理生かされて」延びた寿命が今の日本の「平均寿命」ではないのか。それは決して自然の、絶対的な生命の限界ではなく、豊かさ(所得)に比例した「相対的な」寿命でしかないのではないか。自然に委ねた平穏な、皆と同じ「命の限り」でなく、飢餓や劣悪な衛生環境で栄養失調や感染症で空しく死んでいく国や民族があり、保険対象でない「先進高度医療」をふんだんに受けられる富裕層とそうでない人たちの混在する「豊かな社会」がある、「激しい格差世界」での『選ばれた寿命』が今の、我々の寿命ではないのか。
 『後ろめたさ』を引きずった「世界に冠たる長寿」をいつまで誇っていいものか。
 
 うごめく掌の群は、いわば「死」という新しい言葉を探り当てようとしてもがく彼らの意識下の苦悶、熱望、希求を、実に如実に表現しているように、私には思えてならない。同じ断崖の別の場所で撮影されたさまざまの記号化された岩絵に比べて、この掌の場面は比べようもない迫力にみちているのも、すでに意識化され言語化された観念を視覚化、記号化することと、言葉そのものを意識の深層からしぼり出す現場の凄まじさとの違いを示すものだろう。/言い難いものが言葉になる劇。/血の背景から新しい言葉がまさぐられ、つかみとられる現場の光景。/人間がそれまでの手の器用な一動物から、死の不条理の苦悩を背負う〝奇妙な生きもの〟に変身するプロセスの秘図である。
 これは日野啓三の「断崖にゆらめく白い掌の群」からの引用である。テレビのルポルタージュ「イリアン・ジャヤ(ニューギニア島西半分)」で映し出された高さ百メートルを越える断崖に掘られた約三万年前の共同墓地の壁面にある数十にのぼる掌の手形―赤茶色の顔料が吹き付けられて浮かび上がった白抜きの掌の揺らぎをみて、『死』という観念を知ってそれを『伝える』ために『死という文字』を執拗に追い求める原初の「蒙昧」な人間の「呻吟」を感得した作家の神経は鋭敏だ。
 
 それに比べて我々はあまりに「鈍感」になり過ぎていないか。豊かさを当然として享受し、科学の齎す「便利さ」を「ただある物」として用いることに何の躊躇いも感じていない。インターネットが普及してSNSが全盛となって「言葉」に対する意識が麻痺し「言葉」が包含している事実や観念や意味を思い遣ることなど論外の状況―「〈古井〉言葉がぼろぼろに崩れがちな時代ですし、これは敗戦に劣らぬ文学の危機ですね『文学の淵を渡る』より)」に至っている。古井の「文学」を言葉、社会、政治に置き換えれば現状の惨状が明快に理解できよう。
 
 その中に、おかしな事が起こった。一つの文字を長く見詰めている中に、いつしかその文字が解体して、意味のない一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集まりが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る。(略)単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か?ここまで思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた。魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹などが、人間でないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。(略)「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰ヒアラスコト、猶、蛆虫ガ胡桃ノ固キ殻ヲ穿チテ、中ノ実ヲ巧ニ喰ヒツクスガ如シ」(略)「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ麻痺セシムルニ至ツテ、スナハチ極マル」(略)近頃人々の物憶えが悪くなった。これも文字の精の悪戯である。人々は、最早、書きとめて置かなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚が弱く醜くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及して、人々の頭は、最早、働かなくなったのである(中島敦著「文字禍」より)。
 
 人間が「言葉」を有って観念の共有が可能になり「言葉」が「文字」に『変換』できるようになって人間は有頂天になってしまった。「文字」からこぼれ落ちているものが多くあることを忘れ、「文字の霊」の存在など初めから無かったかの様に振舞っている。こうした人間の傲慢さへの報復が、頭脳を犯し精神を麻痺せしむるに至り、文字が普及して頭が働かなくなった、今の状況を現出しているのであろう。
 
 一方晩年についてはこんな見方もある。「人は老年と老耄と一緒にするようだけど、老年の明晰さってあるんですよ。病、老、死という必然の縛りの中から見るので、その分だけ明晰になる。それが人には成熟と言われますけど、その明晰さは混沌と紙一重の境なんです。言語の解体の方向にいきなり振れてしまうかもしれない。(古井)(『文学の淵を渡る』より)」。
 今ほどの長寿は人類未経験の領域だ。それだけに前例が無い。前例が無いからこそ老人一人ひとりの創造性が試されている。ダイバーシティ―『多様性』こそ「老人」を規定する根本的な指標となるに違いない。
 
 『じゃ、おれはもう死んじゃうよ』
 またしても文豪―幸田露伴のこの呟きが身に沁みて感じられる。
 
 
 

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