2015年11月22日日曜日

老後の初心

  「引退してもさびつくな」という有名なコピーがある。これはユナイテッド・テクノロジーズ社が1979年から85年にかけて月に二度、ウォール・ストリート・ジャーナル掲載した一連の広告のコピーのひとつだが、当時の経営者だったハリー・グレイ親しい人に向けた手紙のようなメッセージは、新聞広告史上最もぬくもりを感じさせるものとしていまに語り継がれている。
 
 しかしこの約600年前、わが国で同じようなメッセージを発している人がいる。能の創始者、観阿弥・世阿弥父子の世阿弥が能楽書『花鏡』に書いている「老後の初心を忘るべからず」ということばである。(以下は長谷川宏著『日本精神史』に依拠している。文中の引用はすべて長谷川の現代語訳が使われている)
 「命には終わりがあるが、能には終点があってはならない。年齢に応じた能を一体一体と習いつづけて、老後の年齢にふさわしい風体を習うのが老後の初心というものだ。」と世阿弥は説き起こす。暗い情念をかかえこんだ主人公がこの世とあの世のあいだを行き来しそこに幽玄の美を揺曳する「能」というものを、七歳から五十有余までの肉体に合わせた稽古のあり様を展開しながら説いた最後の「五十有余」の到達点を「老後の初心」と世阿弥は表現する。
 長谷川はこの件をこのように説く。
 「老後の初心」という表現がおもしろい。初心とは、事を始めるに際して当人の経験する心の状態ないし心の方向性をいうが、長く能をやってきた老後にも「老後の初心」があると世阿弥はいう。「なにもしないという以外に手がない」というのがそれだ、と。/老後には老後ならではの課題があらわれ、その課題に取り組む新鮮な志が老後の初心と呼ばれる。しないというところに向って努力を重ねるのが老後の課題だ。(略)能に終点がない、というのは暗に稽古がどこまでも続くことを示すことばだが、世阿弥はそこに能の生命力を感じとり、能のゆたかさとおもしろさを見ている。年齢に合わせて体を日々訓練し、未熟なところ、至らぬところを一つ一つ克服し、演技をいっそう高度な、完全なものにしていく。そういう稽古の延長線上に、しないという以外にやりようのないような老後の稽古をくり返す、――そこに見てとれるのは、自然的存在としての体と、演技する体との複雑微妙な融合と離反のさまだ。
 
 世阿弥のことばではもうひとつ「老骨に花が残る」という『風姿花伝』のことばも趣がある。長谷川はこのことばをこのように感じている。
 「老骨に花が残る」というのが言いえて妙だ。自然のままの花がとっくに散っているはずの老骨に花が残っている。(略)老いた父の控え目な演技を見て、世阿弥は能の花が自然に咲くものでありながら、事と次第によっては自然を超えて咲く可能性のあることを確信したにちがいない。/その、事と次第に、大きく関与するのが稽古だ。役者の体は年とともに自然に変化するが、自然な変化に寄りそいつつ、自然そのままの花ではない花を咲かせようと体の鍛錬を重ねること、それが稽古だ、といってもよい。自然な体と能を演じる体とを媒介する活動が稽古だとともいえる。自然な体と演じる体との現在と来しかた行くすえを冷静・的確に理解し、二つの体の均衡と調和を図りつつ稽古を進めることが要求される。
 
 「引退してもさびつくな」にしても「老後の初心を忘るべからず」「老骨に花が残る」にしても、今ほどそのメッセージが生きる時代はないのではないか。世は「高齢社会」である、『老骨』があふれている。しかし『さびついて』いないだろうか?『老後の初心』に気づいているだろうか、老骨に『花』が残っているだろうか?世阿弥は盛んに『稽古』の重要性を説くがそれと昨今の高齢者のアンチエージングとは同じではない。平均寿命が飛躍的に向上しそれを健康寿命につなげるために精出す高齢者がプールやスポーツジムでトレーニングに励んでいるが、彼らのその先にはなにがあるのだろう。観阿弥・世阿弥の稽古は能の精進のためにあった。今の高齢者は何のために健康増進に努めているのだろう。
 
 2025年には65歳以上の高齢化率が30%を超える(75歳以上は18%超になる)。30%を超える人たちと若い人たちの間に『断絶』のある社会は『正常』とは言えないだろう。では何で『つなぐ』のか?
 模索しなければならない、早急に!
 

0 件のコメント:

コメントを投稿