2016年3月13日日曜日

「なでしこジャパン」は何故負けたのか?

 「なでしこジャパン」がリオ五輪出場を逸した。キング・カズ(三浦知良)がこんな感想を述べている。
 「当然だろう」が錯覚になり現実とのズレを招くように、分かったつもりの自分が分かっていない何かがある。その何かを僕は知りたい(28.3.11「日経・サッカー人として」より)。ズレについて彼はこんな経験を同じコラムに書いている。「横浜FCに加入したスロベニア人DFがいる。『欧州と守備のやり方がだいぶ違う。日本に慣れないと』と言う。ん?僕らはさんざん欧州の映像を見て、ラインのつくり方や押し上げ方をそっくりにしている。なのに『違う』って?」
 カズはふたつのズレを言っている。ひとつはこれまでの実力といまの実力のズレ、もうひとつは同じ事をやっても結果が伴わないズレ。「なでしこ」の敗因を彼はズレにあると考えているようだ。では「なでしこジャパン」のズレとは具体的にどんなものなのだろう。
 
 「ポスト澤」の新メンバーにとって、澤さんは居て当然の存在であり、彼女の存在を前提として自分たちのサッカーを身につけてきた。澤さんが抜けて、同じポジションのミッドフィールダーMFに宮間選手や川澄選手が変わりを務めたのだが機能しなかった、それが大きな敗因だったのではないか。では宮間選手や大澄選手が実力的に澤さんと大きく劣るのかといえばそんなことは無い、ほとんど遜色の無い実力を持っていると思う。では何故負けたのか?
 イギリスの神経学者、オリバー・サックスの自伝『道程』のなかの一節がヒラメイた。
 
 「六番目の感覚」、固有受容感覚(略)。意識にのぼらず目にも見えないが、五感のどれよりも、あるいは五感をすべて合わせたよりも、重要で不可欠であることはほぼまちがいない。ヘレン・ケラーのように、目と耳が不自由でもかなり充実した生活を送ることはできるが、固有受容感覚は自分自身の体を知覚するために、自分の手足が空間内のどこにあって、どう動いているかを知るために必須であり、もっと言えば、自分の体や手足が存在することを知覚するのに必須なのだ。(略)あの混乱(バイク事故で左足が完全に麻痺した)はおもに固有受容感覚の障害から生じたもので、その障害が、目で見ないと自分の左足がどこにあるのか、というか左足があることさえわからなかったし、「自分のもの」とも感じないほどひどいものだったのだ。
 澤さんはサックスの『左足』なのだ。「ポスト澤」の「なでしこジャパン」は、これまで意識しなくても勝手に動いてくれていた『左足=澤』が無くなってしまったのに、無意識のうちにまだ『澤さんという機能』を動かそうとしている。というよりも、意識しなくても動いてくれていた『澤』さんがあるものとしてゲームを展開している、実は宮間選手であり大澄選手に変わっていることを見て、意識しなければならないのに、まだその向うに『澤』さんが勝手に動いてくれていると『無意識に意識』して。
 
 生まれつき耳が聞こえず手話を使う人の脳では、耳の聞こえる人ではふつう聴覚皮質になっているものが、視覚の仕事、とくに視覚言語の処理に「再配置」されることが明らかになった(同上書より)。
 「なでしこジャパン」が『澤さんという機能』の喪失を克服するには、宮間選手や大澄選手を『再配置』する必要がある。「ほかの人では意識の監督を必要とせずに自動的に起こることの多くが、イアンにとっては意識して慎重に監視しながらでなければできない(同上書より)」。彼女たちは分かっている、でも澤さんなら見なくても勝手に動いてくれていた部分(MFのセンターハーフという機能から溢れていたもの―機能、戦術、戦略そして精神的なもの)、それを意識して、確認して同調していかなくてはならない。今はその段階なのだ。カズのいう「分かったつもりの自分が分かっていない何かがある」、その何かを「ポスト澤」の彼女たちが突き詰めて、見出して、プログラム化できるまで「なでしこジャパン」の苦闘は続くであろう。
 しかしそうなったとき「なでしこジャパン」は世界のトップクラスに磐石の定位置を確立する。
 
 欧州のトップリーグで活躍する日本選手が「サムライブルー」になると欧州チームで見せる実力の半分も発揮できないのも、欧州のチームで「選手間で無意識に働いている機能」が日本チームでは埋めきれず、抜け落ちているからであるに違いない。
 
 シェンゴルド先生からは、意識や言葉を超えたところにあるものに気を配り、耳を傾けることを教えられた(同上書より)。
 

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