2016年3月28日月曜日

嗚呼、東芝よ!

 我が家に東芝の攪拌式洗濯機が来たのは小学4、5年生―昭和26、27年の頃だったと思う。初夏のある晴れた日、学校から帰って庭に出てみると洗濯場の一遇にそれはデンと据え付けられていて丁度父がローラー式の絞り機を母に実演して見せているところだった。父の晴々とした自慢げな顔に比べて母の方はよく憶えていない。
 何故この場面を鮮明に記憶しているかといえば父が母への愛情をあからさまに示した数少ない出来事だったからだ。技術将校として東京の造兵廠へ出向していたとき自由恋愛で母と結婚し八王子の寮で生まれたのが私であった。京都で古くから鉄工所を営んで地域ではそれなりの存在を認められていた家の長男坊で京都第一工業を出た自慢の息子にはソコソコの相手から嫁を迎えたいと心づもりしていた祖母にとって、自分の強い反対を押し切って結婚した母が許せるはずもなく、ふたりの小姑ともども相当辛く母に当たっていたようだ。軍用道路拡張のために工場と事務所兼用の住まいを僅かに残して居宅を大きく削られて、やもう得ず道路を挟んだ向い側の借家を夫婦の住まいとして別居することになって母はどれほど楽になったことだろう。とはいえ向い合ったふたつの家の家事一切と鉄工所の工員さんたちの世話もしなければならなかった母にとって「東芝攪拌式洗濯機」は有り難い贈り物であったに違いない。
 
 妻は同業の鉄工所の次女で見合い結婚した。数ヶ月たってようやく寛いで酒を酌み交わすようになった会話の中で義父が「日立派」であることが分かった。父は「東芝派」だった。これだけでは内容不明だろう、モーターのことである。当時日本には東芝、日立、安川の三大モーターメーカーがあってそれぞれ特色を持って競い合っていた。東芝は馬力性能が、日立は堅牢さを、安川は重電で多く採用されていた。ハイカラで合理的な父は東芝好みが似合っていたし義父はどっしりと貫禄があったから「日立」らしかった。
 鉄工所絡みでいえば「超硬バイト・チップ」も東芝の有数のテリトリーであろう。「タンガロイ」というブランド名で早くから業界を牛耳っていた。昭和5、6年に商品化されているから歴史は古い。旋盤などの「切削工具」市場では住友の「イゲタロイ」と双璧をなして今もなお第一線で必須の工具として存在感を示している。製造業の基礎技術である「切削加工」の領域で「超硬工具」の果してきた貢献度は絶大なものがある。
 
 日本初の「白熱電球」を量産化したのも「東芝」である。明治初期に田中久重が創業した東芝(当時は芝浦製作所)で藤岡市助が量産化に成功した白熱電球は「MAZDAマツダ」ランプの商品名(ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを冠したこの白熱電球は米国社製で東芝がライセンス製造した)で日本の夜明けに輝いた。
 
 明治維新の工業勃興期から我国を牽引してきた名門『東芝』が存亡の危機に瀕している。2003年に「委員会設置会社」という最先端の経営体制をいち早く導入した日本でも有数の「模範的な会社」であったはずの東芝が何故「不正会計」という大罪を犯してしまったのか。2000年の世紀末を挟んで日立や松下が大幅なリストラで業容建て直しに呻吟しているなか、揺るぎない業績を誇り2005年には一旦英国の会社に売却されたウエスチングハウス社(WH)の原子力部門を買収するという離れ業を演じて見せた東芝が、その裏で巨額の赤字を粉飾していたなどと誰が想像しただろうか。好業績を喧伝していたそのWH社の原子力事業が実は1600億円以上の巨額の減損を発生させていたという事実も明らかになっている。
 
 ショープは仕方がない、亀山などの液晶事業への過剰投資という経営判断の誤りが原因だから納得のいく破綻といえなくもない(従業員や株主にとっては経営者の責任は許せないであろうが)。しかし東芝は、事業展開についての経営判断の誤りではなく経営者の『不正』による破綻であり、それは間違いなく経営者の『保身』という身勝手な企みが原因であるだけに決して許されるものではない。
 昭和の時代、町のお医者さんのレントゲンは大概島津製か東芝のものだった。その東芝の医療機器部門の子会社がキャノンに売却が決定したという記事を読んでこのコラムを書こうと思った。150年近い歴史を営々と築いてきた名門企業が数人の経営者の背信行為によって破綻の瀬戸際に追い込まれる、一万人をはるかに超える従業員が職を失い多数の株主に多額の経済負担を強いるこのような不正をどのように防げばいいのか。そして不正を犯した経営者に責任をどのように負わせることができるのだろうか。
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