2017年1月9日月曜日

老の春

 生くること やうやく楽し 老の春 (富安風生)―― 新年おめでとうございます。
 
 昨年十二月に後期高齢者になって、飯が旨くて、本が読めて、駄文を書いて……、ようやく生活のペースができてきたように感じている。三年前、七十二歳で仕事をすっかり辞めて「純」年金生活に入って毎日をどう過ごしていいか戸惑うかと思っていたが翌日も昨日と変わらず生活していた。六十代後半から仕事と私生活を半々にして、というより責任の軽い仕事になったせいで私生活の方が楽しくなっていったので「後期…」に向けての準備が整ってスンナリと移行できたのだろう。煙草を止めて、テニスを始め体力がつき健康が定着したことが大きかった。そのせいもあって昨年末風邪気味になったが、今までなら完全にダウンしていたものが発熱もなく首と耳に断続的な痛みが二三日つづいただけで事なきを得た、体力が人並みになったお陰であろう。毎年冬になると、足指が冷たくなって痺れが辛かったのだが、ネットで「足裏マッサージ」を知って毎朝五分ほど実行したらずっと軽症で済んでいる。医者・薬頼りにならず「自然治癒力」を活用することの大切さを痛感した去年(こぞ)であった。
 
 ところでここ数年、違和感を感じていることがある。というよりも「怒り」さえ感じている。それは新聞やマスコミで年寄り(以下高齢者などと言わないでおく)が取り上げられるとき、決まって「消費者」としてなのが我慢ならない。いわく、1700兆円の個人金融資産の60%以上を持っている高齢者の消費をどう活性化するかが景気上昇の…、とか、高齢者の生前贈与の方策として「ジュニアNISA」制度を設ける、とか。
 こんなこともあった。日本創成会議という総務省の出先機関のようなシンクタンクが「地方消滅――896の地方自治体が消滅?」などというショッキングな提言を出した。もと総務大臣の増田寛也氏の主宰するシンクタンクの提言は地方自治体の財政事情を勘案して大都市の年寄りは地方の介護施設へ移住すべきだ、などという『暴言』さえ提案していた。「金の卵」とはやされて高度成長時代を生き抜き、バブル崩壊にも耐えて退職金でようやくローンを払い終えた「郊外の戸建」を、人口減に伴う公共サービス効率化を図る都心回帰の「スマートシティ」を造るために売却せよ、という世論でさえショックだったのに、財政事情のために地方移住をシレっと提言されるとは、年寄りの気持ちを踏みにじるにもほどがある!とは感じないのだろうか。
 
 しかしこうした傾向はなにも年寄りに限ったことではない。「ビッグデータとAI」や「IoT」で生産や生活に革命が起ると騒がれているが、これも人間をセグメンテーション――「消費者―顧客」と捉えて『細分化』して商品生産を活発化しイノベーションを引き起こそうという考え方に他ならない。しかし、もうそろそろ、「便利と幸福」の勘違いに気づくべきではなかろうか。
 今あるテレビも冷蔵庫もパソコンも昔は無かった。自家用車が各家庭にあるなど想像だにしなかった。最も驚くべきは「スマホ」だろう。こんな小型の電子計算機がこんなに安くみんなが持つようになろうとは夢物語そのものだ。ここまで短期間で、こんなに『便利』になって本当に有り難いと思う。でも、幸せになったと心から感じている人がどれほど居るだろうか。
 昔、親父一人が働いて妻と子どもを養っていた。お祖父ちゃん、おばあちゃんの三世代同居という『家庭』も珍しくなかった。今はどうだろう?夫婦共働きでも「豊かな生活」を営んでいる『家族』はそんなに多くないのではないだろうか?
 我々が求めていたのは『幸福』ではなかったのか。
 
 我々は「自由と平等」と当然のように口にするが、このふたつはそんなに簡単に「並び立つ」ものなのだろうか。昨年の一連の世界動向はこんな素朴な疑問を我々に突きつけた。トランプ氏の大統領当選は「異常な格差」を放置した「見捨てられた―レフト・ビハインド」された人々の『叛乱』だったという見方が多いが、それは「自由」を放任し「平等」が蔑ろにされた結果に他ならない。民主主義は「自由と平等」を両輪とし「選挙」を主たる維持装置とした制度であるけれどもヒトラーも「選挙」の洗礼を受けて誕生している。戦後70年を経て「政党」も「言論機関」も『大転換』しなければ『民主主義』を牽引する能力を維持できなくなっていることを『痛感』しなければ「21世紀」を先導することができないことは明らかだ。
 
 21世紀、グローバル化はもはや押し止めることはできないであろうが「国民国家」との『折り合い』をどうつけるか?今年は真剣に考えなければならないだろう。企業も資本も国家の枠を跳び越えて活動している。その結果、賃金の安い国を求めて生産拠点を移動させる「資本の論理」が国内の単純労働を奪い取って国外に流出させてしまった煽りで「格差拡大」が引き起こされた。先進国の市民が不満を持つのは当然であるが、一方、『地球大』で見た場合、世界の「最貧困層…一日1.25ドル以下で生活する」の人々の数は、1990年の世界人口の36%から2010年には18%にまで減少している。それでもアフリカの国々では貧困率が他より圧倒的に高く、コンゴ人口の88%、リベリアの84%、ブルンジの81%が貧困層に属している
 21世紀は中国とインドの世紀といわれているが「豊かさの指標」を年収二万ドル以上にこだわる限りこの両国がそのレベルに達するためには地球があと5、6個以上必要になることを考え合わせても、先進国は「豊かさ」への『拘り』を捨てて、新しい「幸せ」の指標を打ち立てるべきだろう。
 
 年頭に当たって明るい話題もいくつか。
 CNF(セルロースナノファイバー)、古着から航空燃料、ビッグデータとAI、深部感覚(固有受容感覚)という新技術がそれである。CNFは木の繊維をナノレベルまで粉砕して再構成した最先端のバイオマス素材である。強度が炭素繊維の5倍の「夢の素材」といわれている。5年後には実用化できそうで主導権を日本が握っているそうだから期待できる。「古着から航空燃料」は日本航空リサイクル企業と組み、世界初となる古着を原料とした航空機燃料製造しようとする試みである。イオンなど小売り12社の回収網を使って古着を集め衣料に含まれる綿から微生物を使って燃料を作る。2020年の試験運航を目指しているが、化石燃料の代替となる燃料として期待されているビッグダータとAIはマスコミで言い尽くされているから詳細は省くが、私の関心はこれによって、「良い大学を出た頭の良い」人たちの仕事が人工知能に奪われて「大学改革」が有無を言わさず行われるだろうという点にある。今のままの学校制度では我国の「人材劣化」は避けようがない。最後の「深部感覚」は人間の生活機能回復に有効性をもっている。人間の部位と頭脳の関係はこれまで「頭脳が司令塔」と考えられてきたが、どうもそうではないようで、相互依存関係かあるいは部位優位である可能性も認められつつあり、その肝のひとつが「深部感覚」なのだ。すでにリハビリの一部で活用されており更なる進化を期待したい。
 
 最後に。ここ一世紀近く我々は「死」を遠ざけてきたが、そして生きることに執着してきたが、長寿社会のこれからは「死をいかに受け容れるか」を真面目に考えよう、と提案したい。オプジーボ問題がきっかけで医療費のあり方が問われているが「医療費の削減」ばかりで、生きること、死ぬことを真剣に考える視点がどこにもない。経済問題ではなく、幸せに生きることを見据えた視点で、この問題が問われるようになれば我国は一変するように思うのだが、いかがだろうか。

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