2016年12月26日月曜日

「紙の本」が見直されている

 アメリカで「紙の本」が売れているらしい。電子書籍全盛のアメリカに何があったのか?私のように「紙の本」で育ったものからすれば、「読み捨てするもの」―情報の新しさに価値のあるものやエンターテイメント系のものは電子書籍の方が適しているが、いわゆる「古典」とか本棚に並んだ体裁を見たときに「訴えるもの」があるような『書物』はやっぱり「紙の本」で読みたいと思う。お母さんの「読み聞かせ」にふさわしいのも「紙の本」だろう。アメリカの風潮が世界的な潮流となって欲しいものだ。
 
 今年も随分読書を楽しんだが『天上大風・堀田善衛』『経済学の宇宙・岩井克人』『〈世界史〉の世界史・ミネルヴァ書房編』『ビッグデータと人工頭脳・西垣通』は示唆に富んでいた。また知の巨人―加藤周一と鶴見俊輔の『二〇世紀から』は20世紀の日本と世界の意味を深く、多角的に教えてくれた。
 『天上大風』のスイスの項はショッキングだった。「永世中立国」という響きから来る『清廉』なイメージが「ナチスのマネーロンダリングに手をかした」「第二次大戦中の『死の商人』であった」などの事実はいかに我々がイメージ操作されているかを知らされて恐ろしかった。
 『経済学の宇宙』で岩井が訴えているのは、経済学というものが極めて「時代の産物」であるということであり、アベノミクスが無惨な『失敗』に終わったのも市場万能の「新自由主義」が現在の経済状況を救済する経済理論ではなかったためであることを明確に分からせてくれる。またお金の本質が難しい理論の裏づけによるではなく「みんながお金を信用しているから」である、という「目からうろこ」的な教えは、世界を席巻している「金融経済」がいかに『脆い』ものであるかを気づかせる。
 『〈世界史〉の…』の「近代歴史学はそもそも、国民国家・国民意識を創り出す、ないし正当化するための学問として成立した」「(現在の欧米の繁栄は)十八世紀まで一貫して優位にあったアジアが一時的に低迷した200年間の例外的な出来事」「世界史を人類の自由の意識が進歩するプロセスだととらえると、ヨーロッパ中心史観にならざるをえない」などの記述は「教科書歴史」にならされたわれわれに『歴史を見る目』を開いてくれた。信長が武田勢と戦った「長篠の合戦(天正3年1575年)」で信長が使用した鉄砲の数が当時の世界記録であったこと、15世紀から18世紀は銀本位の経済でヨーロッパから中国への恒常的な流入状態にあり、中国こそが世界経済の中心であったというアンドレ・G・フランク『リオリエント』の分析は、その中国への銀の供給の多くを我が日本が握っていたことを知れば、信長が光秀に殺されていなければ17世紀の世界地図を塗り替えていたかも知れない、などと「空想の翼」を広げてくれる。本当の歴史教育とは過去の事実を記憶するだけでなく、そのうえで歴史の可能性を多面的に考える力にあるのではないかと思う。
 『ビッグデータと人工頭脳』は、今、世上で囃されているような「AI(人工知能)による人間の征服」など根拠のない妄言であって、Aiを使いこなして人間の可能性を拡張する方向に指導者が導くことの必要性を分かり易く説いてくれた。現在、高大接続のための入試改革が検討されていて「記述式問題」の導入が検討されているがとんでもない方向違いのように思う。記述式の採点の難しさばかりがクローズアップされているが、そうではなくて入試を難しくすればするほど「入試技術に特化した」『特異な頭脳』を作り出してしまうことを問題にするべきで、「AI時代」が求めている『柔軟で創造性に富んだ頭脳』を産み出すにはどうあるべきかを今こそ真剣に考えなければ、ノーベル賞級の頭脳は今後我国から出ることは絶望的になってくることを知るべきだろう。「ビッグデータとAI」の活用は、お役所仕事や企業で行われている多くの「定型的な仕事」のほとんどをAIが代替してしまうようになるから、いわゆる「入試偏差値の高い」「学校の勉強の良くできた」人たちの仕事のほとんどが無くなってしまうことになる。「頭のいいひと」が大学に入って、二年の秋か三年の初めから就活する今の大学、勉強をほとんどせずに大学を出てくる今の制度ではなく、「入るのは簡単だけれども卒業するのは大変」な大学で「本物の勉強」をして知識・技能を身につけ『創造力の基礎』を磨くような大学に改革―入試改革ではなく大学そのものの改革―をすることの必要性を、『危機感』をもって知るべきなのである。
 
 安倍首相が「賃上げ」や「携帯電話料金の値下げ」など『私企業』の活動にくちばしを挟むのは経済の自由な活動を阻害していると批判を浴びているが、アメリカ次期大統領トランプ氏も私企業の活動に強い批判を加えている。既存の「経済学」や「政治学」では世界の多くの国家が抱えている問題を、もはや解決できない『転換点』に差しかかっているのではないか。
 今年の読書を通じてそんな感懐を抱いた。
 
 いつもの年より今年は小説を多く読んだ。なかで印象に残っているのは賈平凹の「中国現代小説」、グレアム・ジョイスの「イギリス幻想小説」、J.M.クッツェーのいくつかの小説だった。これらに共通するのは『理屈で納得できないもの』が重要な要素を占めていることだ。アニミズムとか土着信仰(意識)と呼んだらいいのか―しかしそれだけでは「拾えない」何か―が彼らの描く人々の生活にひそやかに根づいている。
 例えば賈平凹の『老生』『廃都』『土門』は、この一世紀足らずの間に政体が幾度も変遷したが、庶民はしなやかにズル賢く生き抜いてきた。そして呪いや民間薬が平常に存在していることを何ら怪しまない世界がそこにある。ジョイスの世界は最先端の「シティ」と同じ地平にキリスト教をベースとした数世紀前とほとんど変わらない生き方をしている人たちがいるイギリスの奥深さがある。クッツェーは聖書や老いを哲学的に描いてしかも飽きさせない技巧のレベルの高さを誇っている。
 翻って我国の小説は、エンターテイメントと「分かり易さ」を勘違いしたり、史料を使いこなせず広がりに欠けるものが多い。加えて近代以降も息づいていた(戦前にすらあった)「伝統」を拒絶した(いやひょっとしたら知らないのかも)軽く浅い小説が幅を利かせている。閉塞感に満ちたやり場のないもどかしさや苦しみの心理や感情を描いているのだが「浮ついて」いてリアリティがない。唯一『坂の途中の家・角田光代』は子殺しに追いつめられる育児ノイローゼの若い母親の「心の深淵」をサスペンス風に描いて、一種怖さを感じながら読んだ。
 「分かり易さ」と「面白さ」を誤解しているのか軽すぎて手応えのない小説が多い。
 
 「日本の『近代』とは、人間の基軸をいわば『数え年八つの娘』に置いた時代であったのではなかったろうか。(略)現代においては人間そのものが、人間の中の『八つの娘』的部分と等しくなってしまいつつあるように思われるが、そしていったん、人間の基軸がこのようにずれてしまうと、とどまるところを知らず人間は限りなく幼稚化してい」く、という新保祐司の『内村鑑三』にある言葉が重い。
(今年一年お付き合いいただき有り難う御座いました。良いお年をお迎え下さい。)
 
 

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