2017年2月13日月曜日

徳川に学ぶ平和の処方

 世界で唯一、近世-現代に長期の平和を経験し平和をうまくコントロールした徳川治世の260年有余。海によって隔絶されているという地政学的アドバンテージが国家間の戦争を忌避することを可能にした面は否めないが、それを差し引いても「長期の平和」状態を維持し得たことは学ぶに足る価値がある。
 徳川時代は「鎖国」であったと通史的に一括されるが実際に鎖国であったのは19世紀になってからの40年ほどに過ぎない。ほとんどの期間は「四つの口(長崎、薩摩、対馬、松前)」を開いて、中国、オランダ、琉球、朝鮮、蝦夷などと国交があった。とりわけ日本から輸出された銀・銅は世界流通量の三分の一以上を占める圧倒的な存在感を示していたから我国の直接的間接的影響力は決して小さくはなかった。それが19世紀になって輸出品が枯渇し輸入品の国産化が達成されて貿易の必要性が減退した結果、国交が途絶して「鎖国」と呼べる状態になる。従って「鎖国」を平和の維持装置とする見方には無理がある。
 では平和継続はいかにして可能になったのか。
 内戦の勃発は地域的経済格差拡大による領土侵犯になることが多いから経済的側面から徳川時代の特徴を抽出してみよう。
 
 一般に「金沢百万石」とか「徳川四百万石」といわれるが、これは今でいえば「GDP―国内総生産」に相当する。武士の収入は二千石などと表されこれも「年収二千万円」というのに等しい。もし徳川発足当時に全国一律の貨幣制度が確立しておれば多分そのような単位表示が行われていただろうがそれがなかった。代わりに「米の生産高」が当時の『富の表示』に最もふさわしかったから『石高制』が用いられた。税金が貨幣でなく現物納=米納であったから支配階層たる「武士」にとって「米の生産高」は生命線になるわけで徳川幕府は「農民」と「米生産」の厳格な『規制』を骨格として社会・経済システムを構築した。
 城下町(都市)を建設し、農村部に居住していた家臣団と工・商層を城下町に居住させて農民層と切り離し、農業生産を農村部に特化、手工業や商業など非農業部門を都市部に特化させて、兵農分離の身分制と地域的分業を徹底した。これによって農民を農村に固定(今の中国と同じように)したうえで、田畑永代売買禁止令、分地制限令(分割相続の禁止)、商品作物(米以外の)の栽培禁止、新田開発の禁止など農民の創意工夫による生産活動を厳しく制限した(こうした制度・施策は「減反政策」と通ずるところがある)。しかしこうしたガンジガラメの制度が永続するはずがなく米の生産量は低迷する。
 そこでまず米の増収策として「新田開発」に踏み出す。しかし武士階級主体の官営開発では費用対効果が思わしくなかったので民間資本を導入して―今でいう〈PFIやPPP〉の手法である「町人請負」による「新田開発令」を施行したところ新田が飛躍的に増加した。
 新田開発を民間解放したのが『規制緩和』の最初であり農村=農業生産の規制緩和はその後多方面で行われるがそれについては後述する。
 
 「現物納=米納」という武士経済はもうひとつの大きな不都合に見舞われる。米以外の日常品は金銭で購買しなければならなかったから、米の生産高に較べて米以外の出費が嵩めば武士の生活は苦しくなる。城下町に集約された「非農業生産部門」の生産活動が活性化するにつれて武士社会の消費文化が華やぎ相対的に「米価安諸色(米以外の日常品)高」の傾向がつづくようになる。言い換えれば、固定的な石高制による収入の停滞と商品経済の発展による消費の拡大というジレンマにおちいった武士階級の経済は慢性的な赤字基調に陥り根本的な解決策が求められた。
 「石高制」に基づいた徴税システムは米生産に基礎を置いた「農民」に偏重した税制であったから、その他の商品生産に携わる町人=商人にとっては「優遇税制」であった。その非農業産業が税制の恩恵もあって隆盛を極めるようになると支配者階級たる幕府(藩)は商人からの徴税を強化するようになるのは自然の成り行きであった。これをドラスティックに行ったのが田沼意次である。
 田沼は年貢増徴の限界から比較的税負担の軽い非農業部門や流通部門の商工業者を税制に組み込み、株仲間に対する「間接税」である運上・冥加(営業税)や御用金の賦課などの年貢外収入を恒常化して幕府財政の基盤強化をはかった。
 
 現物経済から貨幣経済へ大転換した徳川社会は『規制緩和』が経済政策の中心施策となる。まず「米生産」を義務づけていた生産物を「(米穀以外の)商品作物」に解放した。田畑売買禁止令を解除して土地流動性を高めた結果、地主階級が形成されるようになる。農法と魚肥などの肥料の開発発展は生産性を飛躍的に増大し、各藩に特産物の生産への誘引を高めた。「藩専売制」による税収拡大策は全国ネットをもつ商人への依存を強めることに繋がっていき領内の有力商人の特権化を招くようになる。
 
 貨幣経済の進展をまず担ったのは御朱印貿易などに携わった「初期豪商」と呼ばれる京都の角倉了以、茶屋四郎次郎、大坂の末吉孫左衛門、長崎の末次平蔵等であった。鎖国政策によって貿易が「四つの口」に限定された管理貿易に変更されると、城下町で起った商品生産を束ねる都市問屋商人が力を蓄えるようになり、やがて産業別の特権商人として「株仲間」が承認されると三都―大坂、京都、江戸を中心に全国的に組織化された「株仲間」が誕生するに及んで市場メカニズムが完成する。
 しかし各藩の特産物生産などの地方産業が発展するにつれて、中央の都市問屋商人の流通・金融支配から脱却し、在地主導型の生産・流通システムを創出して地方の経済発展をはかる動きが活発になる。
 こうした動きを総括すると、初期の特権商人による貨幣経済の拡大・普及と幕府のコントロール下での産業別の生産・流通の独占的発展促進、そして『独占の排除』による大都市に偏らない平均化された全国的経済圏の確立とみることができる。
 
 こうした徳川経済の歴史過程を別の視点で捉えると、「中央=都市」から「地方=農村」への変化とみてとれる。強力な幕府支配が三都―大坂、京都、江戸を中心とした都市の繁栄と貨幣経済を確立すると、「石高制」に縛られた武士経済、とりわけ地方経済が疲弊する。そこで各藩が財政再建のために殖産興業を図って幕府や都市商人の支配を脱し地方興隆へと進展していったという流れになる。
 
 大雑把な見方だが、徳川時代が体制転換につながるような大きな内戦もなく260年有余の「長期の平和」状態を享受できたのは、『規制緩和』『独占の排除』『中央=都市から地方=農村へ』の三つに集約できる「経済改革」によって緩やかで偏りのない経済発展を遂げたからと考えられる。このうち「中央から地方へ」以外は、第二次世界大戦後世界的にも我国でも同じような道筋をたどって来たのと符合する。先進国が「拡大・成長」を継続的に達成するためには、『都市化』を進めて「規制緩和」「独占排除」を行い「市場競争経済」を活性化するのが効率的であったのだ。しかし「低成長・高齢社会」を迎えた今、『中央=都市から地方=農村へ』という選択が『長期の平和』状態を享受するために有効になってきたのではないか。
 
 地方を犠牲にしてでも都市に資源を集中し高度成長を達成して『NO1』を目指さざるを得なかった「戦争を常態」とした「近-現代」。そのモデルが機能しなくなった「平和を常態」とした「低成長・高齢化社会」に至った今、「成長」「進歩」などの「価値観」と訣別しなければ社会を安定して維持・経営することが不可能になっていることは明らかだ。さればこそ、『中央=都市から地方=農村へ』の方向転換を徳川時代の歴史が示唆しているとみるのは一方的すぎるだろうか。
 時代の本質的な変化を見通す『賢明』さと『勇気』が我々にあるのかどうか、今試されている。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿