2017年2月27日月曜日

天青色の美

 
 録画しておいたNHK「美の壺・西陣織」と「日曜美術館・汝窯青磁(じょようせいじ)」をつづけて見た、そして思った。「絶対的、圧倒的な金持ちと奴隷的労働がなければこうした芸術はできない」と。西陣織の「爪掻本綴織」の織職人の爪はヤスリの様に切り欠かれている。その爪でひと織りひと織り糸を掻いて綴れが織られていく。絢爛豪華な能衣装はこうした職人の低賃金と長時間労働の結果が連綿と継承されて『芸術』として『上つ方』の目を楽しませてきた。汝窯青磁は北宋の徽宗皇帝が絶大な権力をもって陶工に命じた何万個、いや何十万個の青磁の焼結のなかから選びに選び抜いた僅か九十個ばかりの超絶技巧の結晶である。在位三十年足らずの期間にこれだけの労働を強制するとしたら毎週のように数百の焼結を繰り返さなければならない。土と釉薬の開発だけでも過酷な労働が要求されたに違いない。莫大な資金と天才的職人群の投入がなされなければ、この『汝窯青磁』の『天青色』の『美』は生まれなかった。後世清の乾隆帝が挑戦したが彼の権力をもってしても北宋の天青色は再現できなかった。わずか九十片の磁器はエジプトのピラミッドやスフィンクスにも相当する圧倒的な中世権力のみがもたらし得た『芸術作品』だった。
 
 滋賀県米原に「ナンガ」という小さな企業がある。従業員50人ばかりのダウンウェアのメーカーで年間5万着を生産しているが国内生産にこだわりを貫く姿勢が人気を集め東京・目黒と吉祥寺に直営店を持っている。ところが縫製職人の日本人の確保が難しくモンゴルや中国から外国人技能実習生を集めてしのいでいる。
 MBS毎日放送夕方の人気番組「ちちんぷいぷい」の月曜「たむらけんじの学校へ行こう」の2月20日は「大阪府立堺工科高等学校」を訪問していた。工業系の3コースがあり卒業生のほとんどは就職する。クラブ紹介は「エコデザイン同好会」で天皇陵の水質検査や集めたペットボトルのキャップで絵画を作って環境保護を訴える活動をしている。28万個以上のボトルキャップを色別に分別して「堺市観光マップ」を作り天皇陵の世界遺産登録への協力を繰り広げたりしている。
 
 こうした地道な企業や学校の取り組みの一方で世界的な大企業・東芝の債務超過が報じられこのままいけば東証二部への降格が危ぶまれるという。東芝は指名委員会等設置会社として国内有数の企業統治優秀企業とされていた。2006年にアメリカの原子力発電機製造会社ウェスチングハウス(WH)を買収したとき極めて奇異な感じを抱いた。原発先進国アメリカの筆頭企業が買収に応じること自体不思議なことだし、もしそれが事実なら過酷な利益競争に曝されているアメリカ企業が良績をあげている事業を手放すはずもなく、危うい買収劇になるのではないかと懸念を覚えた。なによりも原発という事業の公共的倫理性に疑問を感じ、名門・東芝が利益の主体を「原発」に置こうとしていることに違和感を感じた。日本を代表する企業のそうであって欲しい姿ではないように思い、残念であった。程なく『3.11』があり、今回の債務超過はこれに起因する原発設置基準の強化に伴う「追加費用の膨大化」が大きな原因と言われている。
 少なくともドイツを初めいくつかの国で「脱原発・クリーンエネルギー化」の動きがあり世界的潮流となりつつあったときだけに、東芝の選択に企業倫理の劣化を強く感じた。
 
 この三、四日身近で受信した情報をピックアップしてみた。古代から中世、近世にかけての圧倒的な権力の搾取や収奪による資本蓄積。その陰には夥しい数の虐げられた人々の犠牲があって、今我々が享受している『芸術や遺産』がある。最近の傾向として富岡製糸工場や別子銅山、軍艦島などの産業遺産の世界遺産登録への活動が盛んだが、それについてバルザックのこんなことばのあることを知っておくのもいいかもしれない。
 なぜ人間は、廃墟をながめるとき、ある深い感動を覚えずにいられないのだろうか。それはおそらく、各人各様感じ方こそちがえ、だれしもがその重圧を感じている不幸が、そこに目に見えるかたちをとって表されているからである。墓地は死について考えさせ、廃村は人生のいろいろな苦労を思い浮かべさせる。死は予測することのできる不幸であるが、人生の不幸は無限である。無限というものこそ、偉大なる憂愁(メランコリー)の秘密ではなかろうか?(『田舎医者』より、太字斜線は筆者)。
 
 我々はここ二世紀ほどのあいだに「自由」と「平等」という掛け替えのない価値を手に入れた。自由はまだ十分に自分のものにすることはできないでいるが、『平等』に関しては声高に、神経質に、主張して実現を要求している。その結果、高みに到達するための修練であったり修行に耐える苦行を甘受する『倫理観』が稀薄化し、かっては奴隷的難渋として強制的に突破していた『境地』に届くことができず、北宋の『天青色の美』は放棄せざるを得なくなってしまった。
 三十年前なら少しの疑問もなく、一人前になるための当然の過程として教えを請うていた「縫製技術」習得の訓練を、他との比較という『平等』感覚がそれを忌避させている
 「自分探し」という不確かで曖昧な『期待』と引き換えに、日常のなかでの単調な「繰り返し」が与えてくれる、比較を拒む『ひそやかな悦び』を手放している。
 
 「自由」には「…からの自由」と「…への自由」がある。人間の長い歴史は「飢餓からの解放」という自由を追求した時間であった。しかし「飢餓からの自由」は今のところ「新たな隷従」と「民主的専制」しかわれわれを導いていない。ヒトラーのナチスがそうであったしポピュリズムが跋扈する今の世界情勢は「民主的専制」への渇望の現れとしてみることができるのではないか。
 
 奴隷的強制なしに『天青色の美』を産み出す自由と平等を、いつか実現したいと希う。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿