2017年3月6日月曜日

新学習指導要領で日本はどうなる?

 先日馴染みの喫茶店の女店主がこんなことを言った。「どうして好い学校を出た頭の良い人たちが新興宗教などにハマってしまうのでしょうね。オーム(真理教)もそうだったでしょう、東大出のお医者さんとか…」。誰かが答えた、「自分の頭で考えないからですよ」。どんな流れでこんな話になったのか、多分清水富美加の幸福の科学・出家騒動あたりがトッカカリだったにちがいない。
 
 先の答えに言葉を足すとこんな風になる。
 今の受験体制では多くの知識を詰め込んで短時間で回答を導ける能力―「受験頭脳」に特化した生徒のレベルに応じて「偏差値」の高い良い(とされている)学校に入れるようになっている。大学に入学してからも就活の関係もあって実質三年足らずの学習期間に「受動的」な知識量拡大に勉めるだけで(アルバイトにも多くの時間が割かれるから)習得した知識を自分なりに編集、体系化して、独自の価値基準を確立することができないまま社会人になるケースがほとんど、ということになってしまう。言い換えると、高校までに習得した基礎学力をもとに「学部別」の「専門知識」という『ツール』を身に付け、職業に着いて社会人となって遭遇する種々の問題を『問題解決』するための『価値基準』を確立するという大学教育の最終目標を達成できないで、おとなになる人が多いということができる。
 
 昨今問題になっている「英語教育の早期化」もこれと同じような問題を抱えている。
 グローバル時代に対応できる「英語(会話)力」を確かなものにするには「早期」に英語に馴染む必要があるから小学校の三年くらいから英語を必修化しようというのが「早期論者」の考えだろう。しかしこうした考えには大きな「落とし穴」がある。
 彼等は言語を単なる「コミュニケーション・ツール」としてしか捉えていないが、言語にはもう一つ『自分の考えをまとめる』というはたらきがある。勿論、早期英語教育を受けた子どもたちが、その後も英語で会話し英語の書物(教育資材)で学習を続けるなら問題はない。しかし多くの子どもたちは日本で暮らし、日本語で親・きょうだい、友人や先生と話し、日本語の本で学習するにちがいない。日本語が「母国語」になるまえに英語も学んだ彼等は、知識を習得し編集・体系化して「自分の頭で考える」という『高度な言語操作』を日本語でも英語でもできない、中途半端な言語状況で放り出されてしまうことになる。
 さらに問題なのは、グローバル化した人的交流―政治であれ商売であれ、趣味的、文化的交流であってもそういう場にでてくる人たちは教養や専門分野でも相当レベルの高いことが多いにちがいない、そんな交わりに「英会話力」だけに秀でて、専門知識や日本文化のバックボーンのない「薄っぺら」な「グローバル人材」が太刀打ちできるだろうか。
 「概念的な専門用語」で書かれた書物や資料を読みこなす『読解力』と『自分の考えをまとめる力』には『母国語』が必須なのである(医学が特殊なのは専門用語が具体的であるからではないか)。「早期英語教育論者」はこの問題をどう考えているのだろう。
 
 折りしも我国公教育の教育内容や授業時数の大綱を定める「次期学習指導要領案」が文科省から2月に発表になった(小学校は平成32年度から、順次中・高校へ実施される予定)。この案について神奈川大学の安彦忠彦特別招聘教授が日経(2月28日)に「私の見方」として意見を述べている。
 まず「大綱」といいながら具体的な指導過程・指導方法まで細かく記述されており従来現場の研究・工夫に任されていた領域にまで規制が及ぶのではないかと恐れる。それ以上に危惧されるのは教育内容が産業界で重視されている「コンピテンシー」に偏っていることで、「実社会で発揮される資質・能力」であるコンピテンシーを高校以下からも育てて欲しいという産業界の要請に応えようという姿勢が鮮明になっている。この能力は「子どものときの興味・関心に基づく問題解決能力」に結びつかないばかりでなく、教育一般の目的である『自立』養成が後退することで、たとえコンピテンシーが身に付いてもしっかり自立していない学生が生み出されることになりはしないかと危ぶまれる。『精神的自立』が高等教育の最大の成果であるとするなら、そこへの過程で「実用性」に偏った資質・能力が教育されることで「大人の求める社会に合わせて子供を育てる」結果につながり「子供の未来決定の自由」が損なわれる危険性が極めて高くなるのではないかと締めくくっている。
 
 大学入試の「記述式」の導入、英語教育の早期化、学習指導要領の「実学重視」。この数年に文科省が打ち出した三つの方向性は『批判精神』と『精神の自立』の劣化につながっていくように感じられ、ポピュリズムとナショナリズムの跋扈する現在の世界情勢の「新たな隷従」と「民主的専制」への渇望と軌を一にする。加えて『AI(人工知能)とビッグデータ』の活動領域はコンピテンシーのそれと見事に符合し「好い学校を出た頭の良い人たち」の得意分野を置換してしまうに違いない。その結果文科省が今打ち出している方向性をこのまま推進すれば、AIの不得意分野である『高度の判断』業務や『創造性』を担う人材が我国から枯渇する悲劇が発生しかねないことが予想される。
 
 70年を超える「平和の時代」をいかにすれば永続させることができるか。それは戦争を惹き起こす「政治」や「思想」を見抜く『批判精神』をもつこと以外にない。その指導的地位を占める可能性の最も高い国は徳川300年の平和を経験している我が日本である。
 その自覚を共有したいと切に希がう。

0 件のコメント:

コメントを投稿