2017年3月20日月曜日

教育勅語のワナ

 日本ははるか昔に皇室の祖先が国を興され、その徳にならって国民が一丸となって忠義と孝行を尽くしてきたので今日まで栄えてきました。教育の根幹も同じところにあります。あなた方国民は、父母には孝行、きょうだい(兄弟)仲良く、夫婦は互いに睦みあい、友人同士は信頼し合うことが大事です。慎み深く行動し、他人には博愛の手をさしのべ、学問を修め仕事を習いそれによって知能を更に高め徳と才能を磨き上げ、進んで世のため人のために尽さなさなければなりません。憲法と法律は遵守しなさい。そして危急存亡の時には正義の勇気をもって社会のために働き、それによって天皇の世が永久に続くよう心がけなさい。
 あなた方がこのような心がけで力を尽すことは、天皇のための国民としてふさわしい資格を得るだけでなくあなた方の祖先がこれまで築いてきた日本の美風を保つためにも必要なことなのです(明治23年10月30)。
 以上が教育勅語の概要(少々意訳しています)で、このあとこうした道徳は古今不変の人間の守るべき道理であるから、わが国にとどまらず世界に広め、私、天皇とともにあなた方国民もともに守りつづけて、この国が心豊かな国でありつづけてほしいと願っています、と結ばれる。
 
 この「教育勅語」が森友学園騒動がきっかけで再び脚光を浴びている。それは籠池理事長の「教育勅語のどこが悪いんですか?親に孝行し兄弟仲良く夫婦相和すのは当たり前でしょう!危急存亡のとき自分のことは差し置いてお国のために尽くすのは当然ではないですか(概ねこんなだったと思う)」という言葉が「そうだよね」と共感を呼んで教育勅語の再評価が高まっているのだ。
 しかしこの風潮には大きな『ワナ』が潜んでいる。
 
 今回の騒動で最も心を痛めたのは何も分からず教育勅語を暗誦させられている子どもたちの姿だった。子どもたちは学校で学問を学ぶ。学問とは「何故」と疑問を持ちその答えを導く方法を学ぶことだろう。それであるのに教育勅語(倫理的道徳徳目)にはそれを許さない「愚かさ」に『信奉者』は気づいていない、安倍首相や稲田防衛大臣のように高等教育を受けた優秀な頭脳の持ち主でさえも。
 そのように道徳というものは批判的な見方が否定されるとねじ曲げて悪用される危険性を帯びている。例えば戦前、教育勅語が如何に悪用されたか。父母に孝を説き、父の上に天皇を戴き、国民は天皇の赤子であると位置づけて絶対の尊敬を必然とした。その天皇の命を体した政府であり軍隊をも「絶対」であると論理を飛躍させることへの疑問―批判を封じる機能を「教育勅語」に担わせ戦争へ突き進んでしまった。
 これまでの歴史を振り返ってみるとどんな社会にも矛盾があった。虐げられた人びとの不満が蓄積し臨界点に達したとき――まさにそれが『危急存亡』のときなのだが――お国(=既存の社会)のためではなく社会を変革する方向に爆発したエネルギーが作用されてきたから、人類は進歩してきた、そして今がある。
 ところが「親に孝行…」などの道徳的な徳目は二千年前三千年前に打ち立てられたもので、その後まったく追加も変化もしていない。この間社会は大きく変動し進歩している。我国の戦前戦後を比較しても、家父長制の大家族制から核家族に変わっている。長幼の序――祖父→父→長男という序列が重んじられ遺産は「長男」が相続して「家」が守られてきた。しかし現在の民法では相続はきょうだい平等になっているから納得の行く分配が行われなければ「きょうだい喧嘩」も起ってしまう、「きょうだい仲良く」とは言っておられないこともある。親に虐待を受けた子供が「子どもだから親に反抗せずに我慢しなさい」と押さえつけられて成長すれば、親になったときその子どもに虐待が繰り返されることになる。虐待を癒やす「カウンセリング」を受けて心の傷を修復するのが現在のあり方である。
 
 儒教にしろ宗教にしろ倫理的道徳徳目は「現状肯定」を基礎として現状「維持」「補強」を目的としているから、現状の制度や体制を変革しようというエネルギーを減殺―封じ込めてしまう魔力がある。しかし一方で道徳は知っているだけでは何の価値もない。道徳の試験で満点をとっても教えを実行しなくては学びを習得したことにはならない。籠池理事長のように教育勅語を良く勉強し子どもたちに暗誦させ教え仕込んでいる人でも校舎の建築見積書を三通も作るような『嘘』をついてしまうのでは教育勅語がまったく彼の生きる力になっていないことが分かる(こうした人のことを福沢諭吉は『偽君子』と呼んでいる)。
 
 最後に天皇について考えてみる。天皇は武家社会になって権力中枢から遠ざかった。ところが明治維新に「天皇の国家」に戻され、さらに天皇制が悪用されて第二次世界大戦が勃発し敗戦した。戦後天皇は象徴となり日本という国は『国民』のものになった(主権在民)。平成天皇が真摯に象徴天皇のあり方を模索され、万世一系という世界に類のない誇るべき文化と伝統を国民の『心のよすが』として定着されたのである。
 
 教育勅語を初め徳目の一つひとつはどれも「それらしい尤もさ」を装っている、そこに『ワナ』が潜んでいるのである。      
 

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