2017年3月13日月曜日

成心・僻見(29・3)

 一国の真の政治というものは、外国に対するいっさいの従属からその国を解放する方向に向うべきですが、しかしそのために、税関とか輸入禁止とかいった恥ずべき手段に訴えてはならないのです。産業を救うことのできるのは産業みずからの力だけであり、自由競争こそその生命です。保護されると産業は惰眠におちいってしまいます。
 このバルザックの『田舎医者』からの引用はまるでアメリカ・トランプ大統領の通商政策を批判しているように読めるが、実は1833年の作である。昨今我国では「地方創生」が声高に叫ばれているが一向に成果が上っていない。『田舎医者』はナポレオン1世失脚後の復古王政を打倒した7月革命でフランスが新たな社会の建設に向って民衆の力が勃興した頃、とあるさびれた田舎町を「地方創生」した医師兼村長の奮闘譚なのだが、その古い小説の「地方創生」策がいまでもそのまま適用可能な新鮮さを保っており、フランス資本主義揺籃期に息づく力強い「原理原則」に学ぶところは大である。
 
 原理原則の大切さは一、二年前に出された文科省の大学「人文科学系学部軽視」の通知の惹き起こした騒動にも読み取れる。この通知は「短期的成果偏重」から「理系重視、人文系とりわけ教育分野軽視」の意向を国公立大学学長宛に打ち出したもので、人文系学部の漸進的縮小、廃止を求めている。これに対して各学長をはじめ日本学術会議やマスコミも一斉に反論を掲げ、自然科学の止まることのない進歩をコントロールできるのは人文科学系知見が持つ『綜合性・統合性』であり、その必要性は自然科学進歩の加速が予想される21世紀に一層重要性が増すと訴えた。その結果この通知をめぐる騒動は文科大臣の人文系学部の再評価表明によって収拾されたが、当該通知の有効性は未だ残ったままであるようだし、文科大臣の謝罪はまだない。
 科学の暴走をコントロールする人文系知見の重要性は先日行われた石原前東京都知事の「豊洲市場問題に関する記者会見」でも明らかになった。席上彼はこのように訴えた。「豊洲移転は知事就任時既定事項であったし、土壌汚染に関しては、私には専門的知見がなく又独自判断する能力もないから、専門家の出した結論を信じそれに沿った判断にもとづいて、裁可するほかなかった。裁可責任は承知しているがわたし独りでなく行政機構も議会も責任を負うべきである」。
 石原氏は一時代を画した我国有数の文学者でありインテリであり政治家であった。その彼が『人文系知見』の『有効性』を否定してしまうのでは、我国が第二次世界大戦や原子力発電に無批判に突き進んだ誤りをいまだに防げない情け無い国であることを、『国際都市東京』の都知事が世界に発信することになってしまうではないか。巨大官僚機構のうえに立つ総理大臣であり東京都知事が、専門性に分化した統治機構を統御できないとなれば、政治の責任は誰がとるというのか。
 専門性の塊である軍隊にシビリアンコントロールが効かないことになれば世界は一体どうなる?
 老いたり、石原慎太郎!
 
 今話題の森友学園問題も教育の原理原則を蔑ろにしたところに原因がある。学園関係者が本心から遵奉しているかどうかは疑わしいが「儒教的道徳教育」がこの学園の教育方針となっていることが騒動のキッカケとみられる(この学園のこれまでの経過を見ると学園の利益追求のために世間受けしそうな教育姿勢を時々に衣替えしてきたように受け取れるフシがある)。政治家の一部に根づよく儒教道徳を称揚する勢力があるが、儒教道徳は皇帝を頂点とした権力構造の維持と皇帝の資質涵養を主たる目的とした思想体系である。皇帝という封建君主が存在していない今、その資質を育成する倫理徳目にリアリティはないし、上下関係を維持するための権力構造もフラットな人間関係の民主社会には無用である。社会に役立つ「実社会で発揮される資質・能力」は「大人の求める社会に合わせて子供を育てる」ことに他ならず、結果としてAI(人工頭脳)時代に要求される「独創性や創造性」「高度な判断業務」を担う能力を阻害してしまう危険性が高いということに気づいていない。教育の一般的目標は「自立精神」の育成であり「子供の未来決定の自由」を保障するのが原理原則である。
 われわれ世代の教育を振り返ってみれば、欧米崇拝に偏向していたために日本文化のバックボーンを身につけないで今に至っているから外国人に能狂言や文楽・歌舞伎を尋ねられても答えられず、神社仏閣の扁額や博物館の屏風や歌扇の文字を読むこともできない。外国人と自信を持って交流できないのを「英会話力」不足のせいにしているが本当のところは別にあることは本人たちがいちばんよく知っている。
 
 ヤマトの「宅配便変革」は『ひとの使い捨てモデル仕事』の終焉を象徴している。企業経営は関係するステークホルダーのトータルな繁栄を目指すものであるにもかかわらず、従業員の権利を不当に貶め、分配利益を収奪した『ひとの使い捨て』経営モデルは物流に限らず建築建設業、低価格飲食業、コンビニ、宿泊業、家庭教師・学習塾など多岐に及んでいた。生産年齢人口は1995年の8726万人をヒピークに減少しており『人手不足時代』が到来するのは自明であったがここ数年それが顕在化し、ついにモデル崩壊の時期に至った。当たり前のこと、従業員の幸福を願うことが当然であるにもかかわらず無視しつづけた「日本の労働市場」の『歪み』は「働き方改革」を国全体で取り組まなければならないほど逼迫した状況になっている。本気で改革を実現したいなら日本の特殊性から、国を初め地方を含めた行政がまず先行、垂範すべきで、厚労省のお役人が先頭きって「ノー残業体制」に踏み出せば一挙に我国の労働環境は改善されるに違いない。
 
 ひとを大切にする。経営者であり投資家であり労働者であり生活者(消費者)である人、そのすべての人を公正に遇する。それが『原理原則』である。
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿