2017年4月10日月曜日

ギャンブル依存症

 手許に四冊の読みさしの本がある。きっかけは書評(毎日新聞日曜版の)で気にかかった『人はどうして老いるのか(日高敏隆著・朝日文庫)』だった。早速図書館で借りて読んでいる途中で、その巻末の朝日文庫の広告の中に荒川洋治の名前があったのでその『忘れられる過去』を近所の書店(何年か前から本を買うのは最寄のO書店に決めている。町の小さな本屋さんが次々と消えていくのが哀しくてせめて私だけでも…、と果敢ない抵抗をしている)に取り寄せを依頼した。更に『人は…』の文中に参考図書としてデズモンド・モリスの『年齢の本』が挙げてあったので図書館の蔵書検索で探したが蔵書になく、代わりに『競馬の動物学』という名に惹かれて借りることにした。もう一冊は、これも何かの本の引用に谷崎の『饒舌録』があり『谷崎潤一郎全集第二十巻』に収録されているのを知って借り出したものである。
 
 『人はどうして老いるのか』『忘れられる過去』『競馬の動物学』『谷崎潤一郎全集第二十巻(饒舌録)』、とにかくしっちゃかめっちゃかの四冊を併行して読んでいる。こんな読み方はリタイアした六十歳過ぎからのことでそれまでは「読まねばならない本」を順次しっかりと読み切っていた。脚注や注書きは飛ばし読みすることが多く、参考図書などほとんど読まなかったし読書ノートはまったく取っていなかった。
 今から思うとどうしてあんな窮屈な読書をしていたのだろうと可笑しくなってくるが当時は自分なりのポリシーをもっている積もりだった。「時代を知る、されど時代に流されない」そんなものだったが根底には四十歳初めにある先輩と交わした「インテリでありたい」という気負いがあった。だから一定以上のレベルを保とうとセーブがかかって読まないで済ました本も多かったしジャンルも狭かった。それでいてとにかく忙しかった、余裕がなかった。
 時間だけは余るほど有る、今になってようやく読書らしい読書ができるようになった。最も変わった点は「批判的に読んでいる」ことだ。それまでは著者の言わんとすることの理解に汲々として「知識の積み重ね」ができていなかった。知識の蓄積が体系化されて自分なりの物の考え方に繋がらなければ「本当の読書」とはいえまい。しかしそれは読書のみによってもたらされたのではなく書くことと併行したから達成できたのだと思う。インプットとアウトプットの程好いバランスの成果だ。高齢になった友人たちの多くが読書を止めてしまったのも多分一方通行の読書のせいだったのではないか。パソコンという便利なものがあるのだから(書いて直してが簡単にできてネットに勝手にアップすればいい)是非「読み込み―書き出し」で読書を楽しんで欲しいと願う。
 
 四冊の本の中で『競馬の動物学』に興味を牽かれたのは間違いなく「競馬好き」だからだ。競馬との付き合いは長い。競馬を知ったのは二十二歳の時だったからもう五十三年になる。学校を卒業して就職したH堂という広告会社の社員寮が国分寺にあって新入社員研修の二ヶ月間、そこに放り込まれた。これが運命の分れ道だった、二駅先に「東京競馬場前駅」があったのだ。今は廃線になった国鉄中央線下河原線というのがあって競馬場へ絶好のアクセスに寮があった。悪いことに同期入社の京大卒の二人が学生の分際で競馬にうつつを抜かしていた輩で初めての日曜日に競馬に誘われた。二浪で世馴れた「おっさん」だったふたりに「純情可憐」な青年は抵抗できず、好奇心も手伝って生まれて初めて競馬場へ行った。そのころ「東洋一」と謳われ威容を誇ったスタンドに圧倒され、青々と広大無辺(?)のターフに魅了され、サラブレッドの雄渾な馬体に魅入られて、馬券まで当たって…、これで競馬に嵌らないほど「意志強固」ではなかった。
 爾来五十有余年、どっぷり競馬に浸かって過した。京都競馬場が増改築されたとき、新館のスタンドに立って「この柱の何本かはオレが中央競馬会に寄付したものだ」と競馬仲間に吹いたものだった。
 とにかく競馬は忙しい。土日が競馬当日で、月曜日は結果回顧と反省、火曜日に次週のレースメンバー発表、水曜日は調教、木曜日にハンデ金曜日に枠順発表。そして金曜日と土曜日は翌日の勝ち馬検討。ほとんど毎日何時間かは競馬に時間が割かれる、仕事が終わってからの何分の一かは競馬の研究に使われる。勿論、いい加減ならそれなりに過せるが、嵌ってしまえばそれでは済まなくなる。これだけ没入しても競馬で勝つのは至難の業、年間通せば必ず幾許かの負けは必定。
 
 競馬は「賭け事」である。それが『日常』になっていることに気づかない、それが普通になっている、ギャンブル漬けになっていることを本人も周りも「競馬」はカモフラ-ジュしてしまう。パチンコが住いのすぐ側にあるからギャンブルに浸かっているとツイツイ手を伸ばしてしまう、普通の生活の中にギャンブルがある。カード(トランプ)、花札、チンチロリン(サイコロ)、町のあちこちで日常にある。街外れのの寿司屋の隅っこのパチスロで十万円摩ってしまうお客もいれば、昼休みに時間つぶしの積もりで入ったパチンコ屋であっという間に十五、六万円を儲けたサラリーマンもいる。非合法のカジノもある。週日の昼間、場末の麻雀屋で三人打ちのブー麻雀半チャンで五万円が遣り取りされるようなことも決して珍しくない日常である。博打漬けになった男に誘惑は勝手に向うからやってくる。
 競馬を賭け事と決め付けて『金儲け』の手段と考えられる人は決して火傷はしない。「オレ、今週どうしても百万円要るんや」とまったく競馬を知らない人が友人に連れられて競馬場に来て、競馬新聞の読み方と賭け方を教えてもらって、丁度百万円になる馬券を買って、勝って、それきり競馬と無縁になった人を知っている。一年に10頭ばかりのオープン馬(一番ランクの高い馬)を選んで、出走するレースの人気と配当を組み合わせて投資と配当金のバランスの良いレースにだけ賭けて五年ほどでマンションを買った名人もいた。競馬は『金儲け』と割り切れるタイプの人は『ギャンブル依存症』になることはない。
 競馬に「金儲け」以外の何ものかを託すタイプの人が『ギャンブル依存症』に陥る。ロマンといったり、人生の縮図と見立てて「勝者」になった瞬間の快感に酔う人とか。一番手に負えないタイプは無意識にギャンブルに自分を『賭けている』人でこのタイプが『依存症』には最も多いのではないか。『お金をスル』ことに不感症になってしまって、そんな自分を「駄目な奴」と「自己否定」して『疎外感』を甘受することに無意識に快感を覚えている。
 
 どうすれば抜け出せるか。自己表現の方法を持っている人は『ギャンブル依存症』になることが少ない、油絵をやっているとか俳句を詠むといった人のように。読書に楽しみを覚えコラムを書いて自己を表現し発表して、読んでくれていると知って、競馬を一種の「推理小説」と見極めて自分をその作家になぞらえるようになったとき、競馬の儲けを無視できるようになった、ひともいる。
 
 「読書は一時のものではない。(略)読書を『失わない』ことがたいせつである(『忘れられる過去』より)」。荒川洋治の詞は深い。
 
 
 

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