2017年4月17日月曜日

谷崎の「見方」

 ここ十年ほど解決がつかないままわだかまっていることがある。漱石の『明暗』が、世上伝えられているほど立派な作品とは思えないのだ。評論家などの云う「漱石最後の傑作」とは正反対に「駄作?冗長なる通俗小説」と十年前に読んだ感想が岩波文庫の裏表紙に書いてある。にもかかわらず折りに触れて手に取った漱石論のいずれをみても『明暗』は高評価になっていた。
 ところが、ところがである。『谷崎潤一郎全集第二十巻』の「藝術一家言/大正九年」に『明暗』の次のような評価があったのだ。「あのやうな作品が今も猶高級藝術として多くの読者を持ってゐるとすれば、それは偶々あの作品が漱石氏の如き学者によって書かれたものであり、殆ど談論風発的小説と言っていいほど議論づくめで書かれている為に、何となく高級らしい感じを与え、多少教育のある人々に浅薄な理智の満足を与えるがためであろう。私をして忌憚なく云わせれば、あれは普通の通俗小説と何の選ぶ処もない、一種の惰力を以てズルズルベッタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である」。ここまで云うかというほど辛辣な評価であるが、谷崎が漱石を近代文学者中最高の作家と認めたうえでのものであるから信用していいだろう。
 谷崎の評価をもって『明暗』の価値が確定するわけではないが、ただ、同じような読み方をする人がひとりでも居たと云うことで安堵した。それだけのことであるが十年来の気鬱が晴らされて心地良い。
 
 この『―第二十巻』は「饒舌録」を読みたくて図書館から借りたものだが思いの外面白い随筆が多く、収獲だった。その二三をご披露しよう。
 
 東京の下町には、所謂「敗残の江戸っ児」と云ふ型に当てはまる老人がしばしばある。私の父親なぞもその典型的な一人であったが(略)そんな工合で親譲りの財産も擦ってしまひ、老境に及んでは孫子や親類の厄介になる外はないが、当人はそれを少しも苦にしない。無一文の境涯になったのを結句サッパリしたくらゐに思って、至って呑気に余生を楽しんでゐる。(略)悪く云へば生存競争の落伍者であって、彼等が落伍したのは働きがないと云ふ欠点にも依るけれども、見やうに依っては市井の仙人とでも云ふべき味があって、過去は兎も角も、そこまで到達した彼等に接すると、大悟徹底した禅僧などに共通な光風霽月(こうふうせいげつ…さっぱりとしてわだかまりのない気持ち)の感じを受けることが有る。「私の見た大阪及び大阪人」より
 彼はこの後、大阪にはこんなタイプの老人を見たことがないと続けて、大阪人の金に対する執着を云うのだが、それは昭和初期までのことで今では東京も同じになっているにちがいない。正直にいえば、現今はこうした存在を許すほど余裕のある時代ではなくなっている。世知辛いギスギスした世相を反映するかのように、先日も世田谷の「児童公園の保育園転用反対運動」のニュースがテレビを賑わしていた。東京も大阪もなく、都会も地方の別も無くなってしまった。そういえばほんの二十年前までは田舎の畦道を歩いていると、真っ黒に日焼けして皺くちゃの「好い顔をした」百姓の爺さんばあさんに合ったものだが近頃はお目にかからなくなった。「昔はよかった…」で済ますには重い「世の移り変わり」である。
 
 私は東京のあの「遊ばせ言葉」と云ふものが分けても嫌ひだ。「遊ばせ」も程々にすればいいけれども、一つ一つの動詞に悉く「遊ばせ」をつけて、その廻りくどい云ひ廻しを早口に性急にぺらぺらとしゃべり立てるに至っては、沙汰の限りだ。あのくらゐ物々しく、わざとらしく、上品振ってゐてその実上品とは最も遠い感じのするものはない。あれに比べれば大阪の船場言葉や祇園の里言葉の方が風雅で品のいい響きを持ってゐる。(私の見た大阪及び大阪人―昭和七年」より
 ところで関西には、此の生活の定式と云うものが今も一と通りは保存されてゐる。京都や大阪の旧市内は云ふ迄もないとして、赤瓦の住宅の多い阪神地方でも、あの辺で住んでゐる人々の生活は決してその建物の外観が示すやうにハイカラではない。それと云ふのが、あの辺の人は昔は船場とか島の内とか云ふ旧市内の目貫きの所に住んでゐたものが移って来たか、さうでなければ地着きの素封家や豪農等が大部分であるから、一面に於いて近代風の邸宅に住まひ、それにふさわしい暮らし方をしてゐるやうでも、他の一面に於いて旧家らしいしきたりを今も捨てないでゐるのである。(同上
 最近流行りの「セレブ」批判を見事に辛辣についている。船場言葉は「吉本芸人風関西弁」に駆逐されたし、神戸や芦屋の住人は土地の出自すら知らない移住民が幅を利かして「セレブって」いる最近の図を見たら谷崎はどんな顔をするだろう。
 
 昔はよく、家庭に舅や姑がゐてくれた方が、却って嫁に色気が出ると云って、それを喜ぶ夫があった。(略)嫁が親たちに遠慮しつゝ、蔭で夫に縋りつき、愛撫を求めようとする――つつましやかな態度のうちに何となくそれが窺われる――その様子に、多くの男は云い知れぬ魅惑を感じた。放縦で露骨なのよりも、内部に抑え付けられた愛情が、包まうとしても包み切れないで、ときどき無意識に、言葉づかひやしぐさの端に現れるのが、一番男の心を牽いた。色気と云うのは蓋しさう云う愛情のニュアンスである。その表現が、ほのかな、弱々しいニュアンス以上に出て、積極的になればなるほど「色気がない」とされたのである。(「戀愛及び色情―昭和六年」より
 さすが谷崎、深い!核家族が当たり前になって、親と同居でも二世帯住宅が普及した現在では望むべくもないが、こんな「可愛らしい」風情の若妻の色気にこそ「おとなの男」はタマラなくくすぐられる。
 
 「大阪人の処世訓の中に、『嫁を貰ふには京女がいい』と云ふ言葉がある」「京に田舎あり」「京都は大阪の妾である」「聖なる淫婦」「みだらなる貞婦」……。
 こんな言葉が卷中に散見される。関東大震災で関西に移住した谷崎は最初京都に住んだが余りの寒さと暑さに閉口して苦楽園など神戸近辺に居を移す。食通の谷崎は関西が気に入って『細雪』などの名作の多くは此方で書かれている。
 
 妻の千代を親友で詩人の佐藤春夫に譲った事情を綴る「佐藤春夫に與へて過去半生を語る書―昭和六年」なども収める『―第二十巻』は谷崎の「見方」を知るには格好の一巻であった。
 
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿