2017年4月24日月曜日

大岡信さんのこと

 詩人の大岡信さんが亡くなった。年譜をみると1931年生れとなっているがもっと年長の方だと感じていた。私と僅か十歳しかはなれていないとはとても思えなかったのは彼の存在が私にとってそれだけ偉大であったからであろう。
 
 私の「韻文音痴」はどうしようもなかったがなんとか俳句の読み方感じ方が身に付いたのは彼の『百人百句(講談社)』のお蔭だった。彼の同種の著作としては『折々のうた』の方が有名だが私にとって『百人―』はありがたかった。奥付をみると2001年2月の発行になっているから仕事の第一線を退く前後に読んでいたわけで、時間的な余裕が今まで手を出さなかった不得意分野に挑戦させたのだろう。思い返すとその頃「西行もの」も数冊読んでいるから、俳句と和歌をなんとかしたかったのにちがいない。この本はその後も繰り返し読んでいていわば「座右の書」的存在として身近においていた。今手にとってみると、色マジックで細かく線引きしてあるから相当読み込んでいることが分かる。
 どこにそんなに惹かれたのかといえばそれまで抱いていた「俳句」のイメージを根底から覆してくれたからだ。「花鳥風月」の写生句か女性の得意な生活句が一般的だが、例えば「戦争が廊下の奥に立ってゐた―渡辺白泉」「戦争にたかる無数の蠅しずか―三橋敏雄」などの無季の社会句はショックだった。もちろん「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり―森澄夫」や「白露や死んでゆく日も帯締めて―三橋鷹女」などの美しい句はいうまでもないが、「おそるべき君等の乳房夏来る―西東三鬼」の新鮮さも忘れ難い。俳句というものの多様な深さを教えてくれたのがこの『百人百句』であったのだ。
 大岡さんの訃報に接してまたパラパラとページを繰ってみると「桔梗(きちかう)や男も汚れてはならず―石田波響」「白地着てつくづく妻に遺されし―森澄夫」のような句に心が動かされたのは我が身がそれだけ老いの極みに近づいてきたからだろう。
 
 大岡さんについて大事にしていることがある。書中の「春深くケセランパサラン増殖す…ケセランパサランは白粉を食ふ虫なりといふ―真鍋呉夫」の解説文中に「ケセランパサラン」がどんなものか知らないと書いてあったのだが、何年かあと、今となってはどうしてそんな偶然になったのかまったく記憶が消えているのだが、フィンランドの民話を読む機会があって、そのなかに子どもたちの「囃しことば」として「ケセランパサラン」があり、何か白い綿のようなものがフワフワと飛んでいるのを追いかけている様子があった。そこでそれを大岡さんに手紙にして送ると、思いもかけず何日かして御礼の葉書が届いたのだ。今度このコラムを書くためにその葉書を探したが見つからない。状差しの一番奥に差しておいたはずがどこを探しても無い。絶対にあるはずだから日をおいて徹底的に探し出そう。文化勲章までもらったほどの人が些細なことにも気を配られる、そんな人柄が偲ばれて嬉しかったし改めて尊敬の念を深めた。
 その後彼の『万葉集を読む』『古今和歌集の世界』の二作を読み(蛇足だがこの二冊は私の蔵書の中の最高値で本体五千八百円もした)、加えて丸谷才一の『後鳥羽院』(新古今集についての作品)も読んだから結局大岡さんの影響で古典の和歌集三部に曲がりなりにも挑んだことになる。そしてそのことが自信となって方丈記、平家物語などの「古文」のいくつかも目を通すくらいはしたから大岡さんには感謝のほかない。
 六十歳以後の後期読書生活が充実した大元は大岡信さんの『百人百句』に導かれたことになる、思い返すとそういうことになる。こういう「出会い」もあるから人生はおもしろい。
 
 大岡さんの本分ともいうべき「現代詩」は幾らも読んでいない。これからは何人かの現代詩も読まねば大岡さんに申し訳ない。現代詩を遠ざけてきたのは「言葉」に対するセンスと細心さが不足していることを自覚しているからで、一つひとつの言葉の意味とイメージ、そして言葉の接続と重なりのつくりだす「ふくらみ」を知覚するちからが弱い、そんな私に現代詩は遠い存在だった。しかし、大岡さんへの義理としてでも少しは努力しなければ申し訳が立たないから、これからの時間の少しは現代詩にも捧げよう。
 
 パソコンやスマホによるSNSを通じた「短文」型の遣り取りに馴れきった現代の人たちの「言葉」のリテラシー劣化は極度に進んでいる。最も卑近な例が「政治家」や「官僚」の言葉の貧弱さだろう、彼らの言葉には『重み』の欠片も無い。
 
 大岡さんの死を心から悼みます。

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