2017年5月1日月曜日

成心・僻見(29.4)

 
 新聞を読んでいると、ときどき問題視されるべき事件や案件が集中して記事になることがある。27日がそんな日だった。
 
 真宗大谷派(本山・東本願寺)が非正規雇用で勤務していた男性僧侶2人から未払いの残業代の支払いを求められ、2013年11月~今年3月までの計約660万円を支払っていたことが26日分かった。この2人は全国の門徒が泊りがけで奉仕のために訪れる東本願寺境内の研修施設の世話係として勤務していたが、早朝出勤、深夜退勤もあり時間外労働は多い月で130時間にも上っていた。きょうとユニオン(京都地域合同労働組合)の仲介で団体交渉を実施、支払いが決定したが、労働組合と違法な覚書を交わすなども明らかになり、大谷派は「信仰と仕事の両面を考慮して法令順守に努めていきたい」とコメントしている。
 この記事を見て「違和感」を感じた人は決して少なくなかったのではないか。信仰と労働組合、あるいは信仰と賃金未払い又は時間外労働。最も不釣合いな取り合わせである。勿論僧侶と雖も「労働者」としての一面を併せ持つことは否定できないし保障されるべきであることは認識している、とはいえ、こんな「争い」は「表沙汰」になって欲しくなかった。雇用主たる真宗大谷派が、信仰の名を借りて、下層(?)の僧侶を「ただ使い」していたかのような印象を持つことが、言い様も無く残念且つ心が痛む。心底「見たくなかった」と思う。こんなニュースに接するたびに新渡戸稲造の『武士道』のこの詞を思い出す。「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。(略)価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(略)自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである。
 
 AMED(日本医療研究開発機構…経済産業省などが参加)の委託による国立がん研究センターの「抗がん剤の延命効果の研究」が発表されたがこれによると「がんが進行した高齢の患者の抗がん剤による延命効果は統計的に意味のある結果を得ることができなかった」と結論づけている。この結果を受けて厚生労働省は高齢のがん患者の治療ガイドライン(指針)を作成する。高齢患者のQOL(生活の質)を考慮して少しでも希望する暮らしが送れるように、抗がん剤を過度に使わず痛みや苦しみを和らげる治療を優先することを選択肢として示すなど、患者が望む治療法を選択できる環境整備を進める意向。
 この記事の後には、長寿化した現代社会を財政問題としてのみ捉え、高齢者の医療費や年金を、ただもう抑制したい、高齢者を人として遇するのではなく「数字」としてみている、そんな厚労省や財務省の小役人が透けて見える。勿論福祉を受ける側も定見(生きることに対する自分なりの覚悟)も無く制度に流されて無節操に受給する姿勢は改めるべきであるが、それを差し引いても為政者の、制度を設計する立場の人間の、構想力が無さ過ぎると思うのは年寄りの僻みだろうか。
 
 もうひとつあった、政治家の劣化が止まらない。中川某の下品な浮気騒動、今村復興相の失言による更迭人事など益々程度が悪くなっている。中川政務官は雲隠れしてしまって謝罪会見も逃げて済ましてしまおうという魂胆らしいがそれでは世論が承知すまい。宮崎議員の前例もあるから辞職に追い込まれる可能性が高いが、それなら今村復興相の方が罪深いし議員失格度は高いのではないか。中川が辞職なら今村も辞職して当然だが、安倍一強の政治状況でそこまで追い込むことができるか怪しい。
 しかしここまで議員のレベルが落ちてくると、根本的なところまで踏み込んで現在の政治システムを考え直す必要があるのではなかろうか。
 
 我国は三権分立に基づいて議院内閣制をとっている。司法・立法・行政が独立してそれぞれを最高裁判所、国会、内閣が担当する体制をしいているが問題は、国会を構成する議員を選挙で選んで、その選挙で選ばれた議員で内閣を組成しているところにあるのではないか。最近の議員の体たらくを一言で言えば「できの悪い官僚」並みの国会議員が大臣の職務に耐え切れず悪あがきして「自滅」しているようなもので、選挙では「政治家」を選んでいるのであって「行政マン」として評価しているわけではない。行政府たる内閣は行政手腕に長けたそれぞれの分野(省庁)の専門家で構成する方が好ましいのではないか、無理矢理行政の素人を大臣に据えるメリットはどこにあるのだろうか、極めて疑わしい。
 社会の発展段階が遅れていて短期にキャッチアップしなければならない時期や終戦直後のような混乱期なら国の進むべき方向性や多様な選択肢の優先順位を決定する必要があるから卓越した政治家の存在が望まれるが、現在の我国のような成熟国の行政府に政治家が必要とされる分野は極めて限定されているのではないか。まして在任期間が短くコロコロ大臣が入れ替わるような現在の政治の仕組みは弊害が多すぎる。そういった意味では以前の派閥政治と族議員の存在には価値もあったわけで、派閥の教育機能が失われ結束が緩んだ現在の政治状況では、『議院内閣制』のために大臣を政治家の間でタライ回しするシステムは根本的に考え直すべきだという考え方がもっとでてきていいのではないか
 
 以前から政治家がお互いを『仲間』と呼び合うのに違和感を感じていた。昔は『同志』と言い交わしていたもので、仲間が一般化した時期と政治家の劣化が時を同じくしているように感じるのは私だけだろうか。いずれにしろ、政治信条を同じくして『同志的結合』によって党派を組織する、この原点にもう一度立ち戻るべきで、政治家という権力に甘えて「恋愛ごっこ」にうつつをぬかしている様な「お子ちゃま政治家」には早々に退場を願いたいものだ。
 
 
 

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