2017年5月15日月曜日

詩人のことば(続)


 詩人は詩をどのように読むのか。
 詩というものは無理をせず、遠慮もなく、いまの自分にわかる一節だけを読み、そこにたたずんだあとに感想を添えるものである。わからないところは読まなくていい。少なくともぼくはそのような詩の読み方をしてきたので、そのことをあからさまにいうことができる。詩はわかるところだけを読むことに実はいのちがあるもので、それを知るためには、ある程度読みなれる必要がある。読みつけない人にとって、わかるところだけを読むことは理解しがたいことかもしれない。(『「詩人」の人』p235)
 読みつけていないから本当のところは分からない。しかし、この詞は「韻文音痴」には勇気を与えてくれる。敷居の高かった『現代詩』をとり合えず読んでみよう、そして読みなれよう。
 
 初心者は手練れの導きに従えば良い。しかし読みなれて、そこそこ詩に馴染んだら「原石」を見つけたい。
 詩集は、平均すると五〇〇部くらいの発行なので、ひとつの作品が詩を見る目をそなえた読者にゆきわたり「あの作品いいね」といわれるまでには一〇年、二〇年の歳月がかかる。それでも、よい詩は読者のもとに残される(どんな人の、どこに残されるかはわからないが残される)。(『空を飛ぶ人たち』p221)
 又吉直樹の『劇場』初版三十万部とは異次元の詩集の世界だが、そんな世界に執拗に没入しているひとがいるのが「詩人」たちの世界なのだ。狭い分、割り込めば『密』なまじわりを共有できる。大体読書というもの自体がそういう「密室的」な行為ではないか。
 書店に本がない、学校でも教えられることはない、マスコミにも出ない、友達の話にも出てこない。だが実はこういう人によって文学は作られている。なぜなら文学はいまの人たちが関心をもつ世界だけを相手にしない。もっとひろいところに対象を定めて、人間というものをひろくふかく語っていこうというものだからだ。だからいまは知られていない名前も重要なのだ。/誰から教えられることもない。おもてだっては、話題にならない。でも文学を語るときに欠くことのできない人物、文学の話題をするとき、その名前を知らないと話そのものが成立しにくい、そういう人物がいっぱいいるのである。そういう人物とことがらで文学の世界はみたされている。いつもいつも目にしないが、それがないとこまる。いわば空気のようなレベルにあるもの、それを知ることが知識なのだ。本を読まなくなると、人は有名だとかいま話題だとか、そういう一定のレベルでしかものを感じとれなくなる。いろんなレベルにあるものを知る。興味をもつ。それが読書の恵みなのだ。(『文学の名前』p219)
 CDが売れなくなって自分の好きな音楽をピンポイントでネットからダウンロードするようになって、新聞が読まれなくなってSNS仲間で共有できる情報だけで世の中を見るようになって、本は書店で平積みになっている評判の高いものだけ読んで、狭い仲間内だけで世界が「完了」している。
 京都市の図書館は蔵書数が少ない。それでも書庫から引き出された本の中にはここ何年も、いや十年以上一度も読まれた形跡のない本が多く所蔵されている。効率だけを考えて、読まれることを最重要評価項目として、図書館の管理運営を民間に外部委託する風潮が蔓延すれば詩人のいう「それがないとこまる。いわば空気のようなレベルにある『知識』を構成する」図書が日本から消えてしまう。
 人生はその人だけのものではない。まわりにいた人が気づき、書きとめ、語る、その残像を含めて成り立つものなのだ。(『見えない母』p205)
 格差が広がって、結婚しない人が増えて、離婚する人も多くなって、自分のようなちっぽけな存在など誰も気にしていないし知る人もいない。そんな人にも視線を当てて詩(も文学も)をつくりつづけているから読書は生きる「力」になるのだと思う。
 
 最近AI(人工知能)が人間を超えて支配するようになる―シンギュラリティ(技術的特異点)をそう遠くないうちに迎えることになる、などと不安を煽るような言説がまことしやかにマスコミにおどっている。しかし人間が『読書』を忘れなければ、本物の『読書』をつづける限り恐れるに足らない。
 読書は一時のものではない。いつまでもつづくところに、よさがある。「読まない」ことをつづけることにも意味があるのだ。読書を「失わない」ことがたいせつである。(『遠い名作』p60)
 (この稿の引用はすべて荒川洋治著『忘れられる過去』に依る

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