2017年5月29日月曜日

バラ園で

 先日植物園にバラを見にいった。野球場くらいの広いバラ園には何十種、いや百をはるかに超えるバラが咲き誇り馥郁たる香りに満ちていた(資料を調べると約270種、1300株ものばらが植えられている)。その美しさに圧倒されなが柔らかな初夏の陽光のなか散策したのだが、途中10人くらいの障碍者が車椅子でバラを楽しんでいるのに出会った。勿論付き添いの人が介助していたが気持ちの和む光景だった。15、6年前にはこのようなグループは余り見かけなかったが最近では周りの人たちも特別扱いしなくなって風景に溶け込んでいる。電車やバスにも普通に障碍者が乗り合うようになってきた。
 
 「障碍者」は「健常者」の対語だろう。健康で通常の人――とは一体どんな人のことを言っているのだろう。障害にもいろいろある――身体障害、精神障害、知的障害、発達障害と多様な障害があるうえ程度の差もマチマチだし、ある意味で高齢者は身体能力が劣化しているし認知症もあるから一種の障碍者といえなくもなく、そうなると「健常者」の割合がどれほどなのか判断するのが難しくなる。パラリンピックで活躍するアスリートを見ると足や手に障害があっても、盲目であろうと彼らの示す運動能力はわれわれ一般人をはるかに凌駕しているし世界最高峰の理論物理学者スティーヴン・ホーキングは移動は車椅子で会話も執筆もコンピューター制御の器具に頼らなければならない重度障害者だということを知ると障碍者の境界線をどこにおくのか分からなくなってくる。
 なぜ健常者と障碍者の区別ができたのか、障碍者が独力で「労働」し「所得」を一人前に稼ぐことができないから、親や周りのものの援助を受けないと生きていけないから、区別されたのだろう。障碍者を受け入れてくれる企業や働き場所もなかったからますます障碍者が社会から排除されてきた。
 別の視点で考えると、障害があることで『生産性』が劣るから一人前と見なされず、(企業)社会から排除されてきたといえる。だから、高齢になると生産性が低下するから「定年退職」というかたちで企業から引退を余儀なくされることにもなる。この論理を突き進めていくと「がん患者は働かなくてよい」という先の国会議員の暴言に連なるし、数年前に起った「相模原障碍者施設殺傷事件」の犯人の言い分を正当化することにもなりかねない。
 
 『胎児診断』というのがあるが現代の障碍者を考えるうえできわめて重要な問題点を提示している。妊婦の血液からダウン症など胎児の染色体異常を調べる新生児出生前診断で羊水検査などで異常が確定した約97%が人工中絶したという資料がある。このように子供がダウン症だと医者が言えば、多くの母親は自発的に中絶するけれども、それは「生産性」重視の経済至上主義の社会が医者を通じて暗黙のうちに精神的圧力をかけているという側面がつよくあるわけで、一般社会の人びとは責任を取っていない。ダウン症の人間を受け入れる体制をつくっておかなくて、しかも中絶の責任を母親におしつける。胎児診断した技術にも責任をおしつける。その背後には非常に大きな経済的利己的な社会が控えていることに注意する必要がある。
 これとは次元が違うが「植物状態にある人」の延命治療がある。生きるということはどういうことなのか、「死にかた」はどうあるべきかが問われる。オプジーボ問題もある。一千万円をはるかに超える薬代を投じて3~5年延命することの意味は、社会保険の財政問題とは別に吟味されるべきであろう。
 
 『生産性』という指標で、経済的な視点だけで「人間の生存」を判断して社会を運営していくことが大きな「転換点」を迎えているように思う。「人手不足」という労働経済的必要から、女性、高齢者、障害者の労働市場への取り込みが図られているが、もっと人間的な視点から取り組まないと必ず社会的な歪みがでてくるに違いない。
 
 「障碍者健常者の判定」「胎児診断」「植物人間や高齢者の延命処置」これらはいずれも『医師』の関わっている領域だ。障碍者を社会から隔離するかどうか、この問題を医療の問題として病院に任せていた時代が長くつづいたが今は社会全体で取り組む時代に変わってきた。パラリンピックが市民権を得たのはそのひとつの表れだろう。植物状態をどう処置するか?患者の基本的権利があるのかどうか、医者は生かすことができるがどうかの判断はできても、生かすべきかどうかの判断は職業的にはできないにもかかわらず実際は医者にそこまでの判断を求めてしまっていないだろうか。医者にこの人間は生かしても無駄だと言わせたい背後の圧力があって、社会の問題を医者の責任にすりかえてしまっている傾向がありはしないか。
 
 人生の節々でその人の死生観が問われる場面や問題に遭遇する時代になってきたが、先日(2017.5.2)の日経に元政府税調会長で一橋大名誉教授の石弘光さんのことばが載っていたので引用したい。われわれとは違って恵まれた人生を歩んでこられた方だが、それを差し引いても魅力的な発言なので味わって貰いたい。
 膵臓がんが見つかり、がん患者になったのは、私が79歳2ヵ月のときである。(略)発見した時点で最悪の「ステージ4b」だったが、心の動揺は何らなかった。家内もまったく動揺はなく、平静に医師の説明を聞いていた。(略)なぜこのように平然と深刻な事態を夫婦ふたりとも受け入れられたのか。/私たちは「人間は生まれたからには、いつか死ぬのだ」といつも話し合っており、死はそれほどタブー視すべきものでもなかったからだろう。私の世代になると、同年輩の同級生たちは4分の1は逝っており、自分もあと何年生きられるか、余命がちらつく年ごろだった。(略)最後まで活動でき、頭脳が明晰なまま、がんで死を迎えるのも悪くない選択肢だと私どもは考えている。
 
 
 

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