2017年6月5日月曜日

成心・僻見(29.6)

 人の噂も七十五日と言うが、共謀罪の強行採決やら加計学園問題やらがでてきて、何一つ疑惑が明かされないうちに「森友学園問題」が風化しようとしている。そこで、ほとんどマスコミで取り上げられなかった視点から「森友」を改めて考えてみたい。
 籠池某なる人物の詳細は知らないが、少なくとも複数の保育園や幼稚園を運営する経営者であることは間違いない。それも相当したたかなやり手らしい。その彼が、巷間噂されているような、マスコミに暴かれた財務内容が本当だとすれば、今回のような15億円以上にも上る小学校設立を計画するであろうか。よしや彼が計画したとしても校舎建築を請け負った建設会社の社長が契約に応じたであろうか。建設会社にはメインバンクもついているであろうから、学園の財務状況は把握されていたはずで、どうみても15億円という建築費用は払えそうにないことは分かっていたとみるのが妥当だろう。計画主も建築請負会社も銀行も、通常の商取引としては成立するはずがないと思われていた「森友学園小学校設立計画」が何故実現に向けてカジが切られたのであろうか。
 考えられるのは数字に表れていない「確実な将来」が保障されていた、ということだろう。絵空事とは思えない『確実性』を誰もが信じる『うしろ楯』があったからにちがいない。それは何か?
 安倍昭恵内閣総理大臣夫人を名誉校長に据え、鴻池議員、松井一郎大阪府知事?竹田恒泰氏ほか錚々たる右翼政治家や論客が「教育勅語教育」に賛同し、応援を惜しまない旨の賛辞で籠池某を持ち上げ、厖大な寄付金がまちがいなく入るであろうことを吹き込んだのだろう。経営者とすれば100パーセント成功が見込めない「空中楼閣」を確信させ、普通の感覚をもった建築会社の社長や冷厳な銀行マンをも信じさせるに十分な『バックボーン』がなければこのような計画は成立するはずがない。それだけのものがあったと考えなければ「森友学園小学校設立」はありえなかった。そこまでの『確実性』を秘めた『ご威光』とは何だったのだろう?
 
 ゾクゾクとでてくる不正――保育士適正数のゴマカシ、補助金の不正受給などを平然と行っていた「胡散臭い」籠池某なる人物になぜ世間で立派な人と言われている面々が「靡(なび)いてしまう」ことになったのか。それはそもそも「教育勅語教育」なるものが信念を持った教育理念に基づかない「胡散臭い」ものであり籠池某もその賛同者たちも「同じ穴のむじな」だったということになるのではないか。
 それに比べて工事現場に貼られていたたった一枚の「森友小学校」学童募集ポスターにあった「教育勅語」という文字ををみて「これはおかしい」と違和感を覚えた木村真豊中市議のなんと『正常』なことか。教育基本法をキチンと知っておれば「森友」は「おかしい」と感じるのが普通の「市民感覚」なのだ。
 
 トランプ大統領の強面外交の意に反して北朝鮮によるミサイル実験や核開発が頻発している。日米韓および国際世論はその都度厳重な抗議と制裁の厳罰化を繰り返しているが北の反発と威嚇は一向に収まる気配がない。ところでこれらの報道を通じて不思議に感じるのは「韓国」と「北朝鮮」がまるで別個の国であるかのように、歴史的にずっと以前から38度線をはさんで敵対する国家であるかのように報じられていることだ。先の大統領選で選ばれた文在寅氏を「親北・反日」と判を押したように性格づけるが、韓国人でそうでない人を探す方が困難なのではないか。程度の差はあれほとんどの人が「親北・反日」とみるのが普通だろう(何しろ我国は朝鮮を植民地化したのだから)。
 朝鮮半島が南北に分断されたのは戦後の東西冷戦による米ロ二大強国のエゴによるものであり望んで分断されたわけではない。ソ連が崩壊したのちは米中の思惑によって分断が維持されてきた。同じように分断されていた東西ドイツが再統一(1990年)されて30年近くなるのに朝鮮半島はいまだに放置されたままである。勿論北朝鮮がソ連や中国の思惑をこえて「世襲制の独裁国家」に変貌したという歴史的事実が統一を困難なものにしているが、それはそれとして世界の国々、とりわけ国連常任理事国などの大国はなにをおいても「朝鮮半島の再統一」を、残された「戦後処理」の課題として取り組むべきではないのか。北を誘い込む難しさはあるが、しかしそれも大国のエゴのもたらしたものであり、誰かが仲介して「南北融和」に道を開かなければ永遠に「北の国際的孤児化」の解決はおとずれない。
 
 トランプ氏の「威嚇戦術」は金正恩氏の「稚拙な反抗心」に火をつけるばかりで逆効果なことは目に見えている。若輩でありながら独裁国家の最高権力者に祭り上げられた彼が、今ここでアメリカの恫喝に屈するなど到底考えられない選択肢である。一日も早く双方が体面を保てる形の「手打ち」に進むべきで、このままだと「予期せぬ暴発」が起る可能性もある。アメリカの「寛容」に期待する。
 
 イギリス中部マンチェスターで起った人気女性歌手のコンサート会場での自爆テロによって幼い女児が殺されたことへの悲しみと怒りが世界に広がっている。憎むべき蛮行でありテロの防止と撲滅は今や世界中の人々の悲願である。
 しかし湾岸戦争以来数限りなく繰り返されてきた「空爆」によって非戦闘員―なかでも幼い子どもたちは一人も「殺戮」されていないのであろうか。イラク戦争で殺された民間人は一万人をはるかに超えているといわれているがその中に、またトランプ氏がシリアに打ち込んだ59発のトマホークによって民間人の幼い子どもは一人も死んでいないのだろうか。空爆をするについてはいつでも国際法上問題がないような「大義」がついているが、どんな大義があろうが、国際人道法で「非戦闘員の無差別攻撃」は禁止されている。
 われわれ日本人は先の戦争で無数の「空襲」を受けたから、戦争にはルールがないかのように思い込んでいるがそうではない。戦争には「国際人道法」がありその筆頭に「非戦闘員の無差別攻撃」は厳重に禁止されている。アメリカは空襲について「どこそこの軍需産業施設の爆撃」と理屈づけしているが「空文」である。まして「原爆」は「絶対に民間人が死ぬ」ことを知っていて、投下したのである。責任は重大である。
 北朝鮮のミサイルに核弾頭が搭載されて我国に打ち込まれるとの脅威が訴えられているが、確実に「民間人」が殺される。北朝鮮に限らない。今世界に存在するアメリカ6900発、ロシア7300発その他1000発以上の核兵器はまちがいなく「一般人」を「殺戮」する。ならば「使用不可」であるはずだ。「国際人道法」を遵守するならば北朝鮮の核の脅威もアメリカ、ロシアの脅威もあるはずのないものである。
 無差別テロを憎むなら「無差別空爆」も『恥ずべき』である。
 
 地球上から「仁義なき暴力の応酬」を排除しようとするなら『戦争のルール』を知ることからはじめねばならない。ふたつの世界戦争の経験から学んだ『人類の叡知』を無に帰するのは愚かだ。
 

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