2017年6月26日月曜日

掌中の珠

 日本経済新聞(以下日経)の『景気指標』が廃止になった。世のサラリーマン諸氏は毎週月曜朝の「景気判断タイム」をどう過しているのだろうか。
 
 毎週月曜日朝刊に掲載されていた『景気指標』は忙しいサラリーマンにとっては極めて重宝なものだった。国内データだけでもGDPや消費者物価指数など45系統の指標が一覧表の形にまとめれられていたから短時間に景気動向を知ることができた。その多様性は出典先だけでも内閣府、経産省、財務省、国交省、厚労省、総務省、観光庁、日銀、電通、不動産経済研究所、自販連など、百貨店協会、日本相互証券、東京商工リサーチ、日本経済新聞社と多岐に亘っていることで明らかだがもしこれを一々ひろいあげて作表するとしたら相当な時間を要するであろうし、大体素人にはデータの出典先を見つけ出すのさえ難しいものも含まれている。どういう経緯を経て今あるデータ構成に至ったのかは知らないが日経の歴史のなかで試行錯誤を経て完成されたのであろう。マクロデータから金融・為替、物価関連、生産統計、消費関連などとともに産業活動が業種別にデータ設定されているものもあったから勤務している企業の景気動向が直接読み取れる便利さもあった。
 何年も統計に接していると発表された数字と実感が異なることが少なくないからデータをそのまま信じていいものか疑問に感じるようになり自分なりの景気判断をする必要があることに気づく。例えば、「所定外労働時間(前年比)」をキーデータにして「マンション契約率」「新設住宅着工」「公共工事請負金額」「広告扱い高」を総合して自分なりの景気判断をしてから他のデータを見るとデータの受け取り方―数字の実相が読み取れるようになる。長年日経を読み、「景気指標」を読んでいる読者は知らず知らずのうちにそのような作業ををしていたと思う。しかしそのためには(ネットで一々データを検索するのではなく)「一覧表」になっている必要があった。アナログだけれども「一覧表」をじっと見つめて相互の関連をつなぎ合せる作業が「自分流の景気判断」を生み出す力になった。長年の購読歴を通じて読者一人ひとりがそんな風に「景気指標」を活用していたと思う。
 毎週月曜の朝、忙しい出勤前の数分間にそんな作業をして、一週間の仕事の基本方針を作る習慣で世のサラリーマン諸氏は暮らしてきたのではないか。言葉を変えれば、統計―経済統計というものがそれだけ身近なものであったということになる。なるほどネットで検索すれば同様のデータは閲覧できるかも知れない。しかし専門家(専門部署やデータ活用が仕事上必須とされる)でない一般人が統計にアクセスする機会はグンと減少するに違いない。残念なことだ。
 
 ふと思い出したのだが「経済企画庁」が消滅したときにも同じような感懐を抱いた。2001年の省庁大改革でいくつかの部局とともに経済企画庁が内閣府に吸収統合された。それに伴って「経済白書(年次経済報告)」が「経済財政白書」に模様替えになる。当初は何気なくこの変更を受け入れていたが数年経って「何かちがう」と感じる。なにが違うのか。副題が2005年まで5年間も「改革なくして成長なし」が踏襲された。副題は1956年の《もはや「戦後」ではない》が有名だが年々の経済特性を表現する執筆者の苦心の表れだったが、それを政権の経済財政政策の基本方針をそのまま流用するのでは完全に「政府寄り」のレポートに変質したという印象を強くもった。
 総理府の外局として設置された経済企画庁は、長期の経済予測に基づく長期経済計画や内外の経済動向に関する調査分析、国民所得の調査などを所管した。行政官庁の一角を占めてはいたが政府当局とは独立性を保っていた。ところが内閣府に吸収され、また「財政」をも含めた「経済財政」を調査分析対象とするために独立性が損なわれ、「長期経済予測」も専門的に所管されていたのが内閣府政策統括官の分掌に含まれるようになった。
 
 もうひとつ大きく変わったのが大学(院)で経済学を学んだ経済学徒が「官庁エコノミスト」として行政を目指す主管庁が分散してしまったことだ。省庁再編以前なら経済企画庁が受け皿として有為の人材を吸収してきたものが今では内閣府、財務省や経産省などの相当の部局に入省しなければならなくなった。しかも各省に入省したとしても当該部署だけではなく省内のいくつかの部署を異動しなければならないから「官庁エコノミスト」として行政マンを全うできるとは限らない。その結果、「官庁エコノミスト」としての専門集団が中央省庁から消滅せざるをえないことになってしまった。
 こうした状況の悪影響はもうすでに現れている。予測を所管する責任部署の独立性が保たれていないことによって我国の「官製の長期経済予測」の『根拠ある継続性と責任』が担保されなくなって政府の経済財政政策の「骨太の方針」の基礎となる長期経済予測が「あやふやな存在」となってしまった。
 
 唯一我国に「官庁エコノミスト」集団があるとすればそれは『日銀』であろう。しかし日銀は金融経済の専門家であって経済全般の専門家ではない。日銀にもそうした認識があったのか日銀政策委員会に経済企画庁の官僚が出席する権限を有していた。日銀の独走を牽制する意味合いを持っていたのであろう(現在も内閣府の職員は出席しているが議決権は有していない)。第二次安倍内閣になって黒田日銀総裁が就任して異次元の金融緩和(QQE)が行われた。「デフレ脱却と2%の物価上昇率の達成」を目的として実施されたわけだが、この政策はいわゆる「マネタリスト」の信奉する政策であり経済企画庁はどちらかといえばこの政策と対峙する「ケインジアン」に近い存在だったから、もし経済企画庁が存在していたらここまで野放図な緩和策が採用されたかどうか、何らかの意味で歯止めがかかっていたかもしれない。   
 
 政府とのあいだに独立性が保たれた「経済企画庁」という存在があったから政府にも日銀にも「ニラミが利いた」、そう信じていい側面があった。ところが省庁大改革という名目の元に経済企画庁は内閣府に吸収統合された。その悪影響は想像以上に大きい、という見方はうがち過ぎであろうか。
 日経の「景気指標」が一般市民に自分なりの景気判断を容易にしていたから、政府や日銀などの「公的な景気判断や経済政策」を批判的に見る力を養っていた。それが紙面から消えてしまった。
 ふたつの批判勢力が劣化することによって政府や日銀が偏った経済政策――国民の一部に有利な公正でない政策を打ち出しやすくなった、ここまで言っては「景気指標」を買い被り過ぎになるだろうか。
 
 「掌中の珠」ということばがある。ひょっとしたら「景気指標」は日経のそれだったのではないか。「あとの祭り」にならないうちに「愚策」と気づいて復活するのなら大いに歓迎である。
 

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