2017年6月19日月曜日

引かれ者の小唄

 良く言えば批判精神旺盛になるのだろうがそんな上等なものではなく単なる臍曲がりの天邪鬼を貫いてきた。文学青年を気取って世間の評価に抗い、どうしてこの作家が、この作品の評判が高いのか疑問に思って今日まで引き摺ってきたものも少なくない。不勉強で専門的知識が欠如しているから秩序立てて批評を加えることができず納得できないできた代表が漱石の『明暗』であり作家では「宮沢賢治」であった。友人との語らいの中でこれらがでてくると、日頃の饒舌が沈黙を決め込んで、『明暗』や賢治への賛辞を遣り過ごしてきた。
 年を取るにつれて小説よりも随筆やエッセイの類を好むようになり、とくにここ数年その傾向が強まってきて、そんななかに谷崎潤一郎の『藝術一家言』と荒川洋治の『夜のある町に』も含まれていた。そしてこの両書に積年の「蟠り」を霧消する巨匠の「信証」が載っていたのだ。「権威」に依りかかる根性なしとの罵詈を覚悟してそれぞれを下記する。
 
 明暗が一個の通俗小説として読まれているのなら問題にならないが、高級な芸術品として汎く真面目に読まれて居るのだとすれば、それに就いての批評をする事は、多くの人に私の藝術観を訴えるのにこの上もない機縁となる訳である。(略)あのやうな作品(明暗)が今も猶高級藝術として多くの読者を持っているとすれば、それは偶々あの作品が漱石氏の如き学者によって書かれたものであり、殆ど談論風発的小説と言っていいほど議論づくめで書かれている為に、何となく高級らしい感じを与え、多少教育のある人々に浅薄な理智の満足を与えるがためであろう。私をして忌憚なく云わせれば、あれは普通の通俗小説と何の選ぶ処もない、一種の惰力を以てズルズルベッタリに書き流された極めてダラシのない低級な作品である。(『藝術一家言』より)。
 
 もしも宮沢賢治が戦争前夜を経験していたら(略)でもここはだいじなところだ。戦争を通過しなかった人の世界観を、いまの国民は傷つきたくないから、とても好きなのである。ちなみに前年の生まれのなかには金子光晴がいるが、このほうの詠草を国民は採らない。宇野千代は暦も足らぬほど長生きをしたが、彼女の年の七分でも宮沢賢治に与えられていたら国民にとって彼はおいしい詩人ではなかったろう。戦争よりもつらいものがあった、もっと本質的なものがあった、あるいはそれをのみこんでいたとみるのが宮沢賢治を愛する人たちの意見かと思うが、世間にかすりもしない世界観はそこまで堅牢なものだろうか。むしろ「気持ちわるい」というのが、物質文明を堪能する現代人の、正直な感覚なのではなかろうか。自分をごまかしてはならない。(略)みずからの日ごろの汚れには目をつぶり、夭折という偶然によって晩節の汚れから逃れた詩人を美化することで満足している国民はいいとしても、数々の体験をくぐったはずの現代の詩人までが「宮沢派」であるのは、現代の詩に身を切るような歴史が存在しなかったことの証かもしれない。森の生き物だの自然を心から愛している国民は、知的先端からこうして「壇」のきびしさを亡失し自滅に傾く。(『夜のある町に―注文のない世界』より)。
 
 「痛罵」といっていいほどの小気味よい「批判」でありおずおずと世間の評価に阿る卑屈さは微塵もない。谷崎の批判には漱石への尊敬が潜んでいるから辛言の底に暖かなものが感じられるが荒川の「賢治批判」には筆舌に容赦の欠片もない。己の文学観に自負をもっているからこその矜持があって壮快でさえある。
 
 谷崎のは『谷崎潤一郎全集第二十巻』に収められていたものだがこの巻に思いもかけない佳文があった。晩年を迎えて友人の富貴に怯懦を覚える昨今だが、どこかで欠乏を睥睨するところが無くもなく、落剥を「身軽さ」と悦(たの)しむ気味が心の空隙に潜んでいる。そんな気分を見事に描写している文なので掲げてみる。
 
 東京の下町には、所謂「敗残の江戸っ児」と云ふ型に当てはまる老人がしばしばある。私の父親なぞもその典型的な一人であったが(略)そんな工合で親譲りの財産も擦ってしまひ、老境に及んでは孫子や親類の厄介になる外はないが、当人はそれを少しも苦にしない。無一文の境涯になったのを結句サッパリしたくらゐに思って、至って呑気に余生を楽しんでゐる。(略)悪く云へば生存競争の落伍者であって、彼等が落伍したのは働きがないと云ふ欠点にも依るけれども、見やうに依っては市井の仙人とでも云ふべき味があって、過去は兎も角も、そこまで到達した彼等に接すると、大悟徹底した禅僧などに共通な光風霽月(こうふうせいげつ…さっぱりとしてわだかまりのない気持ち―筆者注)の感じを受けることが有る。ところが私は、大阪へ来てからかう云ふ老人に出遭ったことがない。此方の友人に聞いてみても、さう云ふ性格は関西には甚だ稀であると云ふ。(略)実際大阪人が「無一文になる」と云ふことを恐れる程度は到底東京人の想像も及ばないものがある(略)彼等はさう云ふ境涯に落ちるのがただもう一途に恐ろしく、たまたまそんな老人に遭へば馬鹿か気違ひ扱ひにして、相手にしないらしい。(私の見た大阪及び大阪人』より)。
 
 老い楽の読書三昧が望外の収獲をもたらしてくれた。これも健康と健眼のお蔭。この年になってもまだ親の庇護に包まれているかと思うといささかの含羞を禁じえない。
 

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