2017年6月12日月曜日

年金は足りているか

 純年金生活者になって三年を超えた。完全に一線をリタイアして――生産社会から絶縁して身軽になった気がするが時たまスポーツ新聞を駅の売店へ買いに行った帰えり、足早な出勤途次のサラリーマンと行き違うと、なにやら後めたい気持ちにおそわれるのはどういう感覚なのか収まりが悪い。
 身軽になった分思考が自由になった。若いころ、いや六十才を超えてからでさえどうしてあんなに必死だったのか不思議で仕方がない。なぜ逆を考えなかったのか、ななめから見れば攻めやすかったのに、などと可笑しくなってくる。
 
 年金問題もそうだ。ことあるごとに「社会保障改革」は喫緊の課題だと政府もマスコミも喧伝する。医療費の膨張をどうすれば抑制できるか、年金財政を適正水準に保つためにはどうすればよいか、などなど社会保障制度がまるで亡国の制度でもあるかのような言い振りである。ところが一方で「デフレ脱却」には消費の拡大が必須であり個人金融資産の過半を握る高齢者の消費を喚起する必要がある、と年寄りの財布の紐をいかに緩ませるかに工夫を凝らしている。子どもや孫に資産移動させようと「こどもNISA、まごNISA」を設けたり「ユニバーサルデザイン」とかいって「年寄り向け商品」をこれでもかこれでもかと市場に送り出してくる。テレビのBS放送では健康補助食品やアンチエイジング化粧品に各種の保険が溢れ、新聞には豪華クルーズ旅行、極上の列車旅行の広告が満載である。
 矛盾していないか?年金を少なくて済まそうというのなら、年寄りの生活が「安上がり」で暮らせるような社会にするべきではないのか。
 大体年寄りの生活というものはそんなにお金がなくても暮らせるようになっている。先ず住居費のいらない人が少なくみても半分はいる、住宅ローンが払い終わっているから。たとえ賃貸にしてもミエさえ張らなければ負担にならない程度に抑えられるはずだ。食うものはそんなに食えない、牛肉は脂っこくて口に合わない、いくら酒好きといっても若いときの半分も飲めない、安上がりなものだ。着る物なんて男はまったくいらないし女性も新しく買うといったって年に二三枚ではないのか。旅行好きでも年を食えば長時間飛行機や列車に乗るのは苦痛になってくるから年二三回一泊か二泊の旅行に行けば上等だろう。いろいろ趣味を楽しんでいる人は多いが道具は大概揃っている、新製品を買うといっても均せば年にそんな出費にはならない。私は本好きだが狭いマンションでこれ以上蔵書が増やせないからできるだけ図書館で借りて済ましている。。
 こうしてみてくると生活に必要なもの――生活必需品といわれるものは高が知れている。政府が音頭を取って「高齢者の消費喚起策」などと囃し立てなければ年寄りの生活は『つましい』ものだ。
 
 仕事世代についても事情は同じなのではないか。生活を維持すのに必要な最低限度の費用を賄うのに現在の平均年収(全体415万円、男性514万円、女性272万円)があれば十分だろう。
 今あるいろいろな商品を見わたしてみて、本当に必要なものは何で、それに必要な機能はどんなものか、分別してみれば無駄なものが多いはずだ。電気冷蔵庫、エアコン、炊飯器、電子レンジ、掃除機、洗濯機、みんな50年前には無かった。今となっては元の状態に戻すのは非現実的だが、機能はどうだろう。付加価値という名目で必要度の低いものが付いていると思わないか。振り返って、まだ使えるのに新製品に買い換えたものが多いのではないか。
 必要最低限のものや機能、まだ使えるかどうか。こんな視点で生活必需品を使用耐用限度いっぱいに使ったら生活維持費用は相当削れると思う。
 
 ところが、それでは「経済成長」ができなくなってしまう。企業が儲かって経済成長できないと「雇用」が維持できなくなってしまう。失業したら収入がなくなり生活できなくなる。ムダでも、必要性がなくても、とにかく毎年新製品を開発して売上を伸ばして儲けて、しっかり経済成長しないと国民が生きていけない。
 こうした理屈で、矛盾を抱えながら資本主義経済は進んできた。
 
 加之(しかのみならず)最近はさらに別の事情がおこってきた。ロボットとAI(人工知能)がそれだ。生産性を上げるために仕事の合理化が必要で自動化、ロボット化を進めなければならず、AIがこれまでロボット化できなかったものまで人手不要にしてしまうから、今ある仕事の半分以上はロボットに『置き換わる』といわれだした。もしそうなったら「労働」して「収入」を得て生活する、というシステムでは日本という国が回っていけなくなってしまう。ヒトは「人間にしかできない仕事」をやればいいなどと気休めを言う向きもあるがそんな簡単にいくはずがない。
 
 窮極の合理化が「グローバル化」である。
 世界中から最適なもの(ヒト、モノを最も安価に)を調達するグローバル化は世界展開する大企業ばかりによくて個人や中小零細企業には何ひとつ恩恵がないように思われているが決してそうではない。視点を世界大に転じると世界の貧困率(貧困ライン1日1.90ドル)は1990年の37.1%(19億5800万人)から2012年は12.7%(8億9600万人)に減少している。ただ問題なのは今のグローバル体制のままで世界のすべての人が「最低限の生計費―生物的な必要」を満たすだけの所得を獲得できるようになれるかどうかということだ。豊かな先進国レベルは1人当りGDP2万ドル以上といわれているがこの条件に当てはまる国はわずか38ヶ国(2016年現在の189ヶ国中)に過ぎない。1万ドル以上が63ヶ国、5千ドル以上で97ヶ国(中国は8千ドル強で73位、インドは1723ドルで144位)、約半数の国が5千ドル未満の貧困国というのが現在の世界の豊かさ、貧しさ状況だがこの貧しい人たちを今の体制のままで救うことができるだろうか。
 今の「グローバル経済」というのは豊かな国(先進国)と貧しい国(途上国)があって、にもかかわらずすべての国が同じ「自由主義的資本主義」経済体制のなかで等しく競争を強いられる体制になっている。ある程度豊かさが満たされた、高度成長が必要でなくなった国とこれからガンガン成長して国民に豊かさを行きわたらさなければならない国が同じ土俵で競争しなければならないのが現在の世界の経済システムだ。『不平等』な経済ステムだ。
 
 我国の高齢者が「安上り」な老後を暮らせるようになることと世界から貧困を追放することはなにやら根っこは同じであるようなことが――放縦な自由競争の資本主義経済を改良しないといけないのではないかということがおぼろげながら分かってきた。それは「無駄なもの」をつくらなくても回っていく経済であり、「労働」による「収入」が無い人でも暮らしていける社会、そして未熟な後進国が優先される世界経済になるだろう。
 
 もしそんな社会ができるとしたらキーワードは「競争」ではなく「寛容」に代わっているに違いない。
 
 
 
 

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