2017年8月21日月曜日

塾に救われた姉妹

 先日テレビで感激した放送があった。中学の三者面談で「今の成績ではあなたの合格できる高校はありません」と宣告された勉強嫌いの女の子が、父親の勧めでとある塾の先生を頼った。「勉強は私が何とかしてやる。君は自分の夢をしっかりと持ちなさい」という先生の指導に従って勉強し夢を看護士に定めた。第一志望の公立高校には合格できなかったが私立の学校に入学し大学にも進学できた彼女は今春めでたく看護士として就職することができた。彼女の妹も同様に学力不振だったが同じ塾の先生に助けられ高校入学を果たし来年夢の音楽系大学の入試に備えている。塾が閉所になり音信不通になってお礼が伝えられない彼女らはテレビ局に居所捜索を願い出て番組で取り上げられ、希望通り再会、嬉しい報告をする姉妹と先生のハッピーな映像に感動を覚えた。
 もうひとつエピソードを。私の友人に中学校の教師をしていた人がいる。若かりし頃、といってももう四十才前後にはなっていた彼の学校は荒れに荒れていた。いじめや不登校、深夜の盛り場徘徊など学校崩壊寸前であったという。そこで彼が数人の後輩と協同してひとりひとりの生徒と向き合い、深夜の盛り場にたむろする生徒とも毎夜のように学校に来るよう呼びかけ、数年かかったが生徒たちを普通の学校生活に戻した。荒廃した学校が正常に戻ったのは彼と数人の若い教師たちの献身的な生徒指導の結果であった。
 
 この二つのエピソードは「学校と塾」の違いを如実に表している。学校生活に反抗する生徒の矯正は塾の事業範囲に属さない。塾の厭な子は塾に来なければいいし塾も入塾を拒否する。塾はあくまでも「勉強を教える」ところ、厳密にいえば「入試のための勉強」を教える場所といってもまちがいない。学校は勉強とともに社会生活に適合できる人格の形成や健康の増進維持も重要な仕事になっている。塾の先生は子どもたちの知識力向上に特化して自己の能力練磨に専念できる。しかし学校の先生はそういうわけにいかない。勉強以外に子どもの社会力の養成や部活の運営、そしてなにより教育委員会や文科省へ提出する書類の作成に膨大な時間を割かれてしまう。今の子どもたちや親は学校に知識力の向上、とりわけ入試に対応する知識の習熟に偏重した要求を突きつけている。極端に言えば学校は内申点が良くなれば好いのであって学力向上は塾に頼っている親や子どもも少なくない。
 教育基本法には「各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うこと教育の目的と規定している。知識力はこうした学校教育の一領域であるにもかかわらず親も子どももこの領域へ肥大した要求をもっている。しかも知識力の向上に関して学校と塾が不明確な形で責任分担している。
 
 問題は「社会において自立的に生きる基礎」であり「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質」が『時代の要請』によって変化することにある。このことは戦前の教育と戦後のそれを比べてみれば明らかであり、戦後に限っても復興期の教育と高度成長期の教育、世界第二位の経済大国になった後の人口減少を迎えた成熟期の現在では大きな変化を来たしている。
 そうした視点から現在の教育システムの特徴を大雑把に表すと、国定教科書、大学入試センター試験(以前の大学共通第一次学力試験)と偏差値に集約できる。
 現在、国定教科書を採用している国はタイマレーシアイランミャンマーロシアトルコキューバリビア北朝鮮などに限られており中国も韓国も形の上では採用していない(韓国は政権によって採用することもある我国は国定教科書を採用することによって明治維新の「西洋化」、戦後の「復興」と「高度成長」を効率的に達成することができた。後進国が先進国に追いつき追い越すためにはモデルになる先進国の完成した学問体系を優秀な官僚が厳選して中央集権的に国が教科書を作成する方が効果的である。そしてその習熟度を国家単位の「単一の評価システム=センター試験」で判定する体制が有効であり、その結果を「偏差値」という数値で一面的に評価すれば子どもたちの学力を「安易」に序列化することができる。社会(企業)が要求する能力が与えられた職務を効率的に遂行する能力=生産性の高い仕事を達成する能力に求められる間はこうした教育システムは有効であった。しかし成熟期に達し新しい価値を創造しなければならない時期を迎えている我国の現状にこうしたシステムは有効性を喪失している。
 
 最近学校の先生より塾の先生の方が教え方がうまい、などと一般の父兄が当たり前のようにいうことがあるが、これは学校の現場を知らないから出てくる「誤解」だと思う。公立学校の先生は「教科書―教材の選択」だけでなく「教え方」も規制されている。学習指導要領と学習指導要領解説がそれである。かって灘中、灘高の先生で中勘助の『銀の匙』を国語の教材として用い、三年間でこれを読み解くという授業を行った名物先生がいたが、こんな授業は公立学校で許されることは絶対にない。要するに我国の先生は教材の選択から教え方まで文科省の厳格な規制に縛られていると言っても過言ではないのである。塾の先生が独自の教授法で子どもたちの人気を集めマスコミの注目を集めることが少なくないがそうした自由は公立学校の先生には許されていない。
 
 成熟期の先進国で要求される「独創性」「多様性」「変化への対応力」などの資質は現在文科省が進めている教育体制からは生まれ難い資質である。今こそ教育基本法のいう「各個人の有する能力を伸ばし自立的に生きる基礎」を養う能力が求められているのでありそのためには「柔軟」で「多様」な教育体制に転換する必要がある。獣医学部の新設を50年以上にわたって許可しないような硬直した独占的な文部行政は一日も早く改められるべきである。
 
 ノーベル賞受賞者が一人も出ていない韓国、まだ数人に過ぎない中国。しかしこれからの五十年、日本優位のつづく可能性は極めて危うい。
 

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