2018年6月11日月曜日

死は誰のもの

 お母ちゃん、Hのおっちゃんどうしやはったん?このごろ見んけど。阿呆やなあんた、Hのおっちゃんもう半年前に亡くなったはるやんか。へっ!ほんま!死なはったん。そおえ…。
 おっちゃんボクを可愛がってくれはった。毎日マンションの1階の階段の前に座って、行ってらっしゃい、お帰りと声かけてくれはった。保育園入ったとき、一年生になったとき、おめでとういうてプレゼントくれはった。去年からあんまりしゃべってくれはらへんようになって、しんどそうにしたはった。いっぺん入院しやはってスグ帰ってきやはって…。それから見んようになったんや。そうか、おっちゃん死なはったんか…。
 
 最近の傾向として家族葬が主流になって、そのうえお通夜も告別式も葬議会館で行われるようになって、ご近所には音沙汰なしのうちに済まされて、知らないうちに亡くなっていた。そんなことが当たり前になっている。
 しかし兄弟姉妹の間で、兄の死が身内に知らされないで「叔父さん、父が亡くなりまして身内だけでお葬式済ませました。お知らせしようと思ったのですが、ガンでしたので面影も変わり果てていましたので、父もいやがるだろうと思って遠慮しました。すみません」。
 中学からの親友が急逝したことを奥さんからの死亡通知で知らされる。「T儀、去る○月×日急逝いたしました。葬儀告別式は親族のみで行いました。生前のご厚誼衷心より感謝いたします。なおお志のほどはご遠慮させていただきますのでご容赦下さい」。彼との付き合いは奥さんより永い。去年だって三月と十一月に呑みにいったのに。それが突然……。
 
 最近の住宅事情として新築の家には「無駄な部屋」がなくなった。昔の家なら仏間があって、普段使わない部屋もあって家で葬式を出すのが普通だった。マンションや団地にはお棺やストレッチャーを運べるエレベーターはめったにない。これでは自宅での葬式は物理的に不可能だ。考えてみれば香典を受け取らない風潮も十年ほど前から一般的になった。キンキラの飾りがついた宮型の霊柩車が影をひそめワゴンタイプやリムジンタイプが主流になったのは最近のことだ。葬式饅頭などもう何十年も前に消えている。
 
 一体人間はなぜ葬式をするのだろうか。最近は人間ばかりでなく愛犬、愛猫の葬式も珍しくない。子どものころ大事にしていた金魚が死んでお墓をつくってやる女の子がいた。でもメダカは死んでもそんなことはしないにちがいない。この「分かれ目」はどこにあるのだろうか。
 明日が百歳の誕生日だという近所のおっちゃんがその前日安らかに眠っているのにご家族が気づいてびっくりされたということがあった。「大往生」というのだろう。そうかと思えばガンを患って抗がん剤を投与されてガリガリに痩せ細って見る影もなく苦しみぬいて死ぬ人もある。阪神淡路大震災や東北大震災であっというまに近親を亡くした人は数多い。戦争で外地で戦死して「お骨」だけが帰ってきたという死もある。
 
 埋葬とは何だろう。女の子は金魚をゴミとして捨てることができなかった。勿論猫も犬もそうなのだから人間をゴミ扱いするなどもっての他ということになる。放って置けば物は朽ち果ててしまうから物でないものにしようとする、それが埋葬なのだろうか。土に埋める、一昼夜かけて燃やして立ち昇る煙を見ながら肉体から魂が天に上っていくのを見やっていたのだろうか。人間の尊厳を守り肉体がゴミのように朽ち果てるのを防ぎ魂が分離するのを手助けする、それが埋葬なのかもしれない。その様を見守り存在としての彼、彼女と訣別する手続きであり儀礼が葬儀であったのではなかろうか。震災死であったり外地での戦死であったりが空しくいつまでも「痕を惹く」のは訣別の手続きである儀式を営めないからではないのか。もしそうなら、兄であり親友の葬儀を身近な親族だけで営むのは彼の死を戦死や難死(震災などによる死)にしてしまうことにならないか。
 仏教の「年忌」が初七日から四十九日一周忌、三回忌七回忌と重ねて三十三年、五十年とあるのは地獄に十の関門があってその都度閻魔様がちゃんと法要がなされたかを検問して死人を通してやって、最後に極楽へ導いてやる。年忌にはそんな意味合いがあるのだと聞かされてきた。生きているものはそんな「フィクション」をたどりながら死の傷みを和らげ死者を心の定位置へ納める、そんな働きがあるように思う。お別れの会は昨今の葬儀事情を鑑みてのギリギリの妥協策なのだろう。
 
 死を穢れと忌む風潮が強い。しかし可愛がってくれた祖父母や父母、親友の死を穢れとするのはまちがっていやしないか。そう考えれば縁のまったくない他人様の死も穢れとみるのは許されない。死が決して遠くない年齢にさしかかった後期高齢者ともなれば尚更死を穢れとする考えかたに違和感を覚える。
 同じように若い者に迷惑を掛けたくないと「終活」なるものをする昨今の風潮もおかしなものだ。親の葬式を迷惑だと思ったひとがいるだろうか。そんな風潮に背を向けて「もう十三年なのだから質素にしやはったら」と親切ごかしの忠告に「いいえ、私がやりたいのです」と夫の十三回忌を身内だけでなく友人も招いて盛大に執り行った京都女が身近にいる。
 
 核家族がほとんどになって、近所付き合いをわずらわしいとする若い人が増えて、いや年寄りも増えて、子育てでノイノーゼになる若い母親が出てきて……。共働きが普通になって、離婚が三夫婦に一組は確実になって、片親世帯の貧困が深刻化して。
 豊かになった豊かになったと政治家も役人も経済学者も言い募るけれども、「幸せ」になった人はどれほどいるのだろうか。
 
 孤独死と身内だけの葬式。なぜか寂寥としてうすら寒い。
 『死』は誰のものなのか。
 最近つくづくと考えている。
 

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